2021年9月29日水曜日

あるインタビュー 1

 ある企画でインタビューを受けることになった。テーマは私にとってとても話しやすいものが用意されている。

     臨床の楽しさ

日々の臨床が楽しいかと言われると、それよりはむしろ遣り甲斐という言葉がぴったりくると思います。患者さんと限られた時間で会っていくことは楽しいことばかりではありません。実は苦しいこともたくさんあります。まずはそこから行きましょうか。患者さんはほとんどがある種の苦しみを抱えていらっしゃいます。私はそれを何とか軽減したいと思います。それはむしろ当然のことであり、私のもとに受診し、私が話を聞き、薬を処方することで、少しでも助けとなりたいとおもわない医者はいないでしょう。そしてそれが比較的うまくいき、患者さんの苦しみが改善されることは私たちにとっての大きな喜びです。臨床をやっていて楽しいと感じるのはその様な瞬間でしょう。これは外科の先生の話を聞いているとわかります。外科の先生は何時間も手術に集中し、うまく患部を取りきれたと思うと喜び、待合室にいる家族のところに真っ先に報告します。「手術は成功しました。悪いところはみんな取り切りました。」そしてそれを患者さん自身の麻酔が覚めたら報告するでしょう。その喜びがあるから外科医を続けていられるのだ、と率直におっしゃる外科の先生は少なくありません。

ところが心を扱う精神科や心理士の場合、私たちが希望するような回復はすぐには起きません。ある意味ではそれは永久に起きない場合もあるでしょう。すると治療プロセスの多くは必然的に失望を伴っています。すると次の段階として治療者に求められるは一緒に苦しさを背負っていくことであり、苦しみを改善しないことをお互いに理解して受け入れることです。しかしそれがある程度できていると感じた時は、それなりに喜びになるのではないでしょうか。

私は最近思うのは、臨床の楽しみは人との関りの楽しみにも似ているという事です。その秘訣は多くの期待をしないという事です。これは患者さんの病状についても治療者についても言えます。人生における苦しみは期待を抱いてそれが叶わなかったことの失望がその多くを占めます。人生の楽しみ、臨床の楽しみの秘訣は多くの期待をしないという事なのです。しかしもう一つあります。それは現在持っているものをありがたいと思う事でしょう。この二つはとても大事なことだと思います。

少しまとめるならば、治療者としての遣り甲斐は、患者さんの苦しみが和らぐことが必ずしも伴わなくても、精いっぱいそれに貢献した、出来ることはやったという気持ちから来るのではないかと思います。そしてそれはあきらめるべきことはあきらめるというプロセスも入ってくるのです。

    精神分析の学び方

 さてここから精神分析の学び方というテーマに移るわけですが、これは今話したこととちょっと関係があります。先ほどは治療者としての楽しさは患者さんの苦しみが軽減することに関係していると言いました。しかし精神分析とは、ある意味では、「苦しみを軽減する」こととは別、というよりは全く逆のことと考えられる傾向にあります。これは私はある意味では同意し、また別の意味では同意しないところです。精神分析はフロイトがそれを始めたころから、自らの心の闇の部分を解明するという目的がありました。それをフロイトは無意識と呼んだわけですが、この考え方が極めて大きなインパクトを持っていました。フロイトはもちろん無意識の部分を解き明かすことで症状も自然に改善されるのだと考えたのです。ですから精神分析の目的は結局は苦しみを軽減することに繋がっていたわけですが、極端に言えばたとえ苦しみは軽減しなくとも、無意識の解明の方がより本質的だという考えがフロイトの中にはありました。フロイトはなんと言っても科学者ですから、何らかの大きな発見に貢献したいという野心がありました。これは非常に不思議な事であり、フロイト自身は人生で大いに悩み、いくつかの神経症を抱えていましたから、その症状を改善するための薬物、例えばコカインなどの試用にはとても興味を持ったのです。しかしそれの臨床的な応用が失敗に終わり、大きな失望を体験した後、フロイトは心の探求へと向かいました。

フロイトが精神分析において患者の苦しみの軽減に最大の重きを置かなかったことは、私は精神分析が抱えている問題の一つだと考えますが、一つの大きな利点がありました。それは心というものの仕組みや構造を、フロイトが誰よりも詳しく、深く考え、理解しようと試みたことです。それが索引も含めた全24巻のスタンダードエディションにまとめられるわけです。そしてその理論から派生した様々な精神分析理論が発達することになります。そこで精神分析を学ぶことはこの理論的な部分を学ぶことに繋がりますが、それが精神分析の難しさや奥行きの深さの部分に繋がります。