精神分析における大文字の解離理論
最後に精神分析における解離理論のあるべき姿について論じ、Dissociation (大文字の解離)の概念を提示したい。解離に関する理論モデルに関するヴァンデアハートの分類を思い起こそう。タイプ2)は「同時に生じる、別個の、あるいはスプリットオフされた精神的な組織、パーソナリティ、ないしは意識の流れの成立」と定義されるものだ。そして過去の精神分析においては、フェレンチにその可能性が見いだされるだけであった。現在の精神分析においては、依然として心が一つであるという前提は不動のものであり、タイプ2)はその理論基盤においては存在しえないものという事になる。そして精神分析における新しい解離理論として注目されているスターンやブロンバークも、結局は心は一つ、という図式に留まっている。ところが彼らにより解離という現象が精神分析においても正式に扱われるようになっているという誤解を招きやすいのである。
ここで私は Dissociation(大文字の解離)という概念をより正確な形で提示したい。その大枠はヴァンデアハートの提示した解離の分類のタイプ2)に示されたものであり、そこに異なる人格の複数の存在を想定するものである。ただしここで正確を期すために次の点を強調しておきたい。それはDissociation においては複数の主体が「共意識状態 co-conscious で」存在しうるという点である。たとえ意識Aと意識Bが存在していたとしても、フロイトが描いたような「振動仮説」に従えば、各瞬間にどちらか一方が覚醒している間他方は眠っていてもいいことになり、そのような二つの意識のあり方は「連鎖的 consecutive」ないしは「連接的 sequential」とでも表現できるものとなる。しかしDIDにおいてはこれらの形とは異なり、意識AとBは同時に覚醒していることが大きな特徴であることは確かである。
しばしば臨床場面で見られるのは、人格間の「論争」である。人格AがBのある発言を聞いて、それに反論をするということがある。その際は発言するBもそれを聞くAも意識としては共存している(共意識的である)ことになる。柴山 (2007) の言う「存在者としての私」と「眼差す私」もまた共意識状態であり、それだからこそ後ろから見られている感じを抱くのである。ただしもちろん人格Aの覚醒時に人格Bは「眠って」いる場合もあり、常にそれらが共意識的であるという必然性はない。そしてこの共意識的という性質は、いわゆるスプリッティングやスキゾイド・メカニズムなどの分析的な防衛機制と一番異なる点である。