2021年5月25日火曜日

母子関係の2タイプ 6

土居が「甘え」の概念で提起したアブないこと

 「甘えの構造」(1971)をあらためて読んでみると、土居先生は注目すべきこと、ないしはかなり大胆な考えを述べているが、これはこの本が国内向けに書かれたことと関係しているかもしれない。場合によっては欧米人を差別するような発言ともとらえられかねないが、土居先生の意思を尊重する形で述べたい。アメリカにわたってさほど長くない時期にそこでの医療に触れた土居先生はこんなことを言っている。
 「アメリカの精神科医は概して、患者がどうにもならずもがいている状態に対して恐ろしく鈍感であると思うようになった。言い換えれば彼らは患者の隠れた甘えを容易に感知しないのである。」(p.16) つまり患者の苦しみを汲み取ろうとしていないと驚くのだ。そして多くの精神科医の話を聞いて彼が以下の結論を下したという。
「精神や感情の専門医を標榜する精神科医も、精神分析的教育を受けたものでさえも、患者の最も深いところにある受け身的愛情希求である甘えを容易には関知しないという事は、私にとってちょっとした驚きであった。文化的条件付けがいかに強固なものであるかという事を私はあらためて思い知らされたのである。(p.16)」
 つまり自分から助けを求めない人を先回りをして何かをするというのは彼らの精神にあわないのだという。そして言う。
「私は自立の精神が近代の西洋において顕著となったことを示す一つの論拠として、『神は自ら助けるものを助ける』(p.17)という諺が17世紀になってからポピュラーになって事実を指摘した。」「実際日本で甘えとして自覚される感情が、欧米では通常、同性愛的感情としてしか経験されえないという事実はまさに我彼の文化的相違を反映する好材料と考えられたのである(p.17)」まあこれはこれで大変なテーマだが先を急ごう。
「甘えるという事は結局母子の分離の事実を心理的に否定しようとするものであるとは言えないだろうか?(p.82)」
幼少時の甘えが正常であることに対し、成人後は甘えるという事が母子分離の否認、という事だという。
「西洋的自由の観念が甘えの否定の上に成り立っている(p.96)」
 つまり自分が「好きなことをする」自由は、他の人の「好きなことをする」と抵触しないという前提がある。だから好きなことをする自由は他人によって与えられるものではない。自由と責任ないしは代償が一つになっているという事を土居先生は言わんとしている。「好きにさせて!」には重い責任が付きまとうのだ。そして土居はルネッサンス期に活躍した学者 Juan Luis Vives (1492~1540)の文章を以下に引用する。
「受身的愛、すなわち愛を受ける側でありたいという傾向は感謝を生じる。ところで感謝は常に恥と混じり合っている。恥はまた当然感謝の念を妨げるであろう。」(p.96) 「感謝は恥を伴い、その恥はまた感謝の念を妨げると考えるらしい。そこで西洋人は恥の感覚を消そうとして、感謝をあまり感じないように、したがって受け身的愛を感じないように長年努めて来たのではないか。(p.96)」
 この文章は、一見極端で意味が通じにくいが、誰かに「ありがとう」という事には気恥ずかしさが伴うことは確かだ。そしてこのVivesのいう恥を「負い目」と読み替えるのであれば分かる。他人から何かをしてもらうことで恩恵を被るという事は、自分の中の不足な部分、至らない部分を認めることになる。目の前に食べ物を差し出されて心から「有難う!」と言えるとしたら、その人はお腹が空いていることになる。
 この土居先生の主張から何が結論をして導かれるのかをもう少し探ってみる。そのために成人の間での甘えと、幼少時の甘えを分けて考えてみよう。
 まず母子関係における甘えは愛着における基本的な情動であり、バリントが受け身的対象愛、ないし一次的対象愛といったものと同じであるとしている。日本においては甘えはより意識化されやすく、母子関係においてもそれが顕在化しやすい。土居先生の引用を思い出そう。
 日本の子供は母親に「愛している」とは言わない。それは彼らはお互いに非言語的な甘えにより交流しているからだ。西洋においては子供のいう「愛している」は「甘え」の代用になっているのだろう。 そして西洋の成人の転移性の愛はその背後の「甘え」を隠しているということになるだろう。
 つまり欧米の母子関係は、甘えという概念や言葉を欠いていることで(土居先生はこれを「文化的条件付け」とも言い換えている)「甘えによる交流」を日本の母子関係ほどスムーズに行えない、という主張のように見受けられる。そしてこの「愛して欲しい、という形での愛」を感じることに欧米人は非常に鈍感であるともいう。それは転移性愛をそうとして感じ取ることが出来ないという問題にもつながる。するとこの考えでは、幼少時の問題と成人したのちの問題は本質的に同じであり、それは「愛して欲しい」という相手の欲求に対する敏感さが西欧人では不足している、という事になる。日本人こそが「甘え」という概念を有することでよりよくお互いの情緒的なニーズをとらえられているという事になろう。
 ところが、である。そのような日本人は「結局母子の分離の事実を心理的に否定しようとしている」「西洋的自由の観念が甘えの否定の上に成り立っている」という言い方をして、あたかも日本人が対人関係に甘えを持ち込むことで個の独立が阻まれていると言っているようである。ただしおそらく土居が言っている「個が独立せず、甘えている日本人」というのは、西欧的な意味での個の独立、という事なのだろう。日本人が甘えをよく知り、それを体験しながら個として独立していないとなると、これはおかしな話である。もし日本人の方が感受性が豊かであるがゆえに個として独立できない、とはおかしな話ではないか。やはりそこにあるのは優劣の問題ではなくて文化差なのである。
 もし土居のいう「人間の心の最も深いところにある受け身的愛情希求である甘えを容易には関知しないという事」が日本と西欧の違いであるとしたならば、それでこの個の独立の問題も説明できるのだろうか? 私は出来ると思う。西欧では幼い子はあまり自分のニーズを汲んでもらえないという体験を持つであろう。そして自分がして欲しいことを表明するようになる一方では他者に先回りして欲求を満たしてもらうという期待をあまり持たなくなるだろう。そしてこのことは、自分も他者の要求を知る努力をあまりしない、という事になる。非常にドライでそっけなく、しかし分かりやすい対人関係がそこに成立するわけだ。そして日本での「個」なら相手のニーズをある程度先取りして満たすと同時に自分のニーズも先取りして満たしてもらうことを期待する(つまり甘える)。つまりこのギブアンドテイクの人間関係の中で生きていくのが、日本における「個」の在り方だ。そしてそのような「個」の在り方とは違うタイプの「個」の在り方が成り立っている社会に属することになれば、当然カルチャーショックを起こすことになる。自分は甘ったれていたんだ、となるだろう。でもそこから日本人は外国人対する態度を変えることで適応していくのが普通だ。
 このように考えると土居先生の議論は一貫しているのだ。日本人は西洋における個の独立は達成していなくても、おそらくそれはまだその文化に適応していないだけであり、やがて英語と日本語を使い分けるようにして両文化でそれぞれうまくやっていくのであろう。とすると「日本型」として発信すべきは甘えの感受性の高さについて肯定的な意味付けを行うと同時に、西洋における個の独立に備える必要があるという事を主張することにとどめるべきなのだろう。
 ところでこのようにまとめたとしても、やはりここには二つの問題が混同されている気がする。一つは感受性の問題。西洋人は相手のニーズに鈍感であるという議論。もう一つは自由の概念の違い。こちらは自分も自分のニーズを他者に満たしてもらおうと期待しないし、他者のニーズに気遣ってはいられないという話だ。これらは異なる問題である。土居先生はどちらのことを言っているのだろう?
 例えば他人がどのくらいおなかが空いているかを検知する能力を考える。土居先生は一方では、①日本人はその能力が高い(西洋人は低い)といっているが、他方では②日本人はそれを検知して反応するが、西洋人は(たとえ検知しても)あえて反応しない、とも言っている。この二つを言っておくことは実は重要で、①だけだと差別意識に通じてしまう。②のような言い方をして、これは文化の差なのだ(おなかが空いたら自分からそれを表現するべき社会だから、西洋人が鈍感というわけではないのだ)と言い逃れをすることができる。

ちなみに私は土居先生が英語で発表したものには、①は主張できなかったのではないかと思うが、考えてみれば甘えの構造はAnatomy of Dependence として英訳されているということはそこの部分も英語で読めることになる。
例えばP.21
At the end of 1961,again at the recommendation of William Candill,I was invited as visiting scientist to the National Institute of Mental Health at Bethesda in Maryland. During the total of fourteen months Ispent there,I had a fresh opportunity to see how American psychiatrists dealt with their patients in practice. I frequently observed interviews with patients and their relatives conducted in rooms with one-way mirrors. I began to feel that generally speaking, American psychiatrists were extraordinarily insensitive to the feelings of helplessness of their patients. patients. In other words, they were slow to detect the concealed amae of their patients.

p22の文章にも同様

Although 1 foresaw this to a certain extent, I was still rather surprised to find that even psychiatrists, who laid claim to being specialists on the psyche and the emotions-and those, moreover, who had received a psychoanalytical training should be so slow to detect the amae, the need for a passive love, that lay in the deepest parts of the patient's mind. It brought home to me anew the inevitability of cultural conditioning.
土居先生、言っちゃってる!
 だから結論としては次のように言える。「土居は甘えの問題に関する日欧格差で二つのことを言っているようである。一つは感受性の違いの問題で、西洋人は相手のニーズに鈍感であるという議論を展開しているようだ。それは以下の彼の言葉に表される。
「American psychiatrists were extraordinarily insensitive to the feelings of helplessness of their patients.」
 もう一つは自由の概念の文化的な違いであり、西洋的な自由を謳歌する彼らはそれを他者によって保障されることを期待せず、他者の自由も許容する責任感とともに体験しているのに対して、日本人にとっての自由は他者により享受されるという感覚がある。それが自らのニーズは積極的に表現すべきであるという観念に結びついていると考えることができる。つまり他者の甘えのニーズに関して、西洋においてはそれに対する感受性が低いと同時に、それを甘受する必要さえも感じていない可能性があるのである。