2019年12月11日水曜日

とも揺れは人生の目標 推敲 1

 2019年の秋は、日本列島はラグビーのワールドカップで大変盛り上がった。日本チームが強豪で優勝候補のアイルランドに劇的な勝利を収めたことで、わが国のにわかラグビー熱は一気に盛り上がった。そこで私は一つのことに気が付いた。テレビでも何度も放映されたのは、実際のラグビーの試合におけるタッチダウンの瞬間の映像ではなかった。もちろんそれも時々出てきたが、その瞬間をを見ていた競技場の観衆や、パブリックビューイングや観客の歓喜の表情だったのである。視聴者も実は、彼らの瞬間的な表情の変化の方を見ていて感動していたのだ。人は一緒になって喜んでいる他人の反応を見るのが好きなようである。そしてそこには明らかに交互作用がある。相手の反応を見てこちらも盛り上がる。そしてそれを見た相手もさらに盛り上がるという増幅効果だ。ただしそれを一人でテレビで見ていてもうれしいということは、その一緒に喜んでいるという感覚をテレビを通して共有できるからだ。
 そしてそもそもパブリックビューイングというシステムそのものが一緒に喜ぶことを目的としていることになる。人はお金を払ってパブや会場に行く必要など本来はない筈だ。家でソファーに横になって一人でテレビで観戦すればいいだけの話だ。ところがそれを増幅したくなる。そこでパブリックビューイングなるものが存在する。ということはラグビーで人が感動するのは、「ラグビーで日本が勝利をおさめたこと」というよりは「ラグビーでの日本の勝利を一緒になって喜べること」なのだ。
 ひとつ思考実験をしてみよう。あなたはアイルランド人の集まるパブに何らかの理由で紛れ込んでいたとしよう。そして大画面のスクリーンに映し出されたラグビーの試合で日本の勝利、すなわちアイルランドの敗戦を目にする。そして周囲の人々が肩を落とし、落ち込むのを見て、それでも「やった、日本が勝った」と楽しめるだろうか。もちろんそんな筈はない。早くそこから抜け出して、喜びをシェアできるような日本人の群れを探すだろう。そして「ラグビー? 試合があったことさえ知りませんし、興味ありません。」という日本人と出会ってもすぐスルーして、とにかく「一緒に喜べる日本人」を探すだろう。やはりどう考えても人は誰かと一緒に喜びたいのだ。
 そんな人間の習性を言葉にしたい。いろいろな呼び方があるではないか。人間の本質を言い表すために、ホモ、なんとか、という呼び方が。人は遊ぶ存在である、という意味では Homo ludens, 遊戯人(オランダの歴史学者のホイジンガーによる) を思い出す。Homo sapiens, 英知人、Homo phaenomenon, 現象人、というのもある。要するに homo 「一緒に喜ぶ人」という言葉を作りたいのである。