2019年11月26日火曜日

いい加減さ 推敲 3


心でサイコロを振ることの重要さ

そのような間断なき選択の中で、ひとつの問いを立てよう。それはABという選択肢が、同程度にありうるとしたらどうだろう? あるいはどちらが正解かがわからないときに、それでもどちらかを選ばなくてはならない時には、どうしたらいいのだろう? 実はそのような状況は日常生活には極めて多いはずだ。このようなときにそれでも心の中でさいころを振ることが出来るには、本当の意味でのいい加減さが必要となる。更に言えば、どちらでもいい時に、それでも微妙な違いを感じ取って、無難な方を結果的に選んでいく能力というのは非常に高度のレヴェルの判断力を必要としているといえるであろう。
皆さんは外国人のお宅にお邪魔して、「コーヒーにしますか、紅茶にしますか?」と聞かれて「どちらでもいい」と答えるわけにはいかないという話を耳にしたことがあるだろう。客観的に見ればどちらでもいいことに白黒をつけることは、物事が円滑に進むためにも重要なのだ。私たちが言葉を用いて人とのコミュニケーションを成立させている以上、どちらでもいいがどちらかに決める時のいい加減さはむしろ必然になってしまっているのかもしれない。そしてそのような状況で決められない病気を私たちはよく知っている。それが強迫性障害なのだ。
おそらく私たちの多くは、どちらでもいい時にどちらかにさいころを振るかは、無意識にパターン化されている可能性もある。意識的にはどちらでも同じだと思っていても、無意識に培われたものがさいころを振る瞬間に影響を与えている可能性があるからだ。
このように良質のいい加減さを獲得できるかは非常に重要なテーマなのだ。振り方がその人の運命を決めるといってもいいのだろうと思う。そしてそこにある特別なメンタリティが働いているように私は思う。それは正解がないことに耐え、そこでの選択に際して後悔をしないということかもしれない。なぜならA,Bの選択が両方とも同程度にありえる場合には、Aを選ぶことにより得られるものと失うものが見えているはずだからだ。そしてそれはBを選択することにより得られるものと失うものを知っているということになる。ABの選択はもはや優劣ではなく、異なる人生の選択ということになり、それは異なる運命に身をゆだねることになるのであろう。
 どちらも同じように好ましく思える選択肢のうちどちらかを選ぶ、ということはだから後悔を伴わないわけであるが、そのような選択を生と死というきわめて重大に思える選択肢の間で行っていた人たちを描いているのが、司馬遼太郎である。彼の描く歴史上の人々、たとえば坂本竜馬や西郷隆盛という幕末の志士たちの人生観とはそのように見える。以下の司馬遼太郎の文章を引用しよう。

「しかし戦に負けて軍艦が沈めばどうなります?」「死ぬまでさ」と、竜馬はむしろ饅頭屋の顔を不思議そうに見、当たり前だよ、といった。「然し死ぬのはまだ惜しいです。」「惜しいほどの自分かえ、饅頭屋」「饅頭屋はよしてください。」「では長さん、男はどんな下らぬ事にでも死ねるという自信があってこそ大事を成し遂げられるものだ。」…… (竜馬がゆく 6、司馬遼太郎1998

この度胸のよさはどうだろう?
あるいは次のような葉隠れの文章を引用しても言い。
 
 武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬ方に片付くばかりなり。別に仔細なし。胸すわって進むなり。
図に当らぬは犬死などといふ事は、上方風の打ち上りたる武道なるべし。二つ二つの場にて、図に当るやうにすることは、及ばざることなり。我人、生くる方が好きなり。多分好きの方に理が付くべし。

これはいざと言うときに死を覚悟していれば、行動を誤ることはないという意味である。
 私はここにはまた不可知論が深くかかわっていると考える。それは正解はわからないし、未来はわからないし、その大きな不可知の前で人の命ほどはかないものはないということである。なんという壮大でかつ深い思想なのだろうか?