2014年10月11日土曜日

脳と心(11)

本当に台風って、はた迷惑だよね。
誰も読んでいないブログは続く。

3. 解離を中心とした精神分析理論。すでに精神分析においては、フィリップ・ブロンバーク、ドネル・スターンなどにより解離の概念を主軸にした精神分析理論が提唱されている。ただし歴史的に見て、精神分析の世界では解離は分が悪かった。それはフロイトが解離という現象自体を信用せず、またジャネとのライバル意識から解離を抑圧の一種に過ぎないという、いわば解離現象を矮小化した見方に固執してきたという歴史がある。← ここら辺私のかなりの個人的な感情が入っているな。
 そのなかでサリバンはNot me という表現で解離された自己の在り方を表現し、理論化した。彼の言うgood me, bad me, not me という概念化の内の最後の部分である。最初の二つはおそらく多くの人が身近に体験しているであろう。自分という存在に対する意識が、よい自分、悪い自分という形でわかれるということは多くの人が体験する。イケている自分、「俺って、やれるじゃないか?」と思えるときのセルフイメージと、「全然アカンな」と思うときとではかなり自分に対して持っているイメージが異なる。しかしNot me は、その時の自分があたかも別の世界に逃げ込んでいるような状態、苦痛や恐怖や屈辱のために心をマヒさせるような形でしか、その体験をやり過ごす事が出来ないような状況を意味する。このNot me は「深刻な悪夢や精神病的な状態でしか直接体験できず、解離状態としてしか観察されない」とサリバンは考えた。この時の体験は、それが深刻な苦痛が伴う為に決して学習されず、またより原始的な心性のレベル(プロトタキシック、パラタキシック)でしか体験されないと考えたのである。
 現在では、このサリバンのNot meの理論は、トラウマや解離の文脈で再評価されるようになってきている。精神医学、心理学の世界が人間が体験するトラウマとそれによる心の病理を再認識し、焦点付けするような気運になったのはここ30年ほどのことである。30年というと非常に長いかもしれないが、その中で精神医学的、精神分析な考え方が徐々に変革を迫られて来ているのである。
 1.で「患者の声を受け止めよ」というスローガンめいたことを書いた。脳画像上の変化が示すことは、心の専門家でさえも「気のせいではないか?」「そのように言うことで他人を操作しようとしているのではないか?」と勘繰ったような患者の証言が信じるに足るような根拠を備えていたということである。これは解離の理論についてもいえるのだ。
Not me に由来する体験はしばしば荒唐無稽で、一見信憑性を書く。心的苦痛を伴う体験を思い出せない、という解離性健忘における体験はその一つであろう。