2014年3月21日金曜日

続・解離の治療論(7)


子供の人格への対応

「子供の人格が出たらどうしたらいいのですか?」という問いは、患者の家族からからも療法家からも頻繁に問われる。そこには二つの問いが含まれているといってよい。一つはこちらも子供として接するべきか否か、それとも大人が演じているものとして対応するべきかという問いであり、もう一つは子供の相手をまともにすることにより、子供の出現が定着してしまうのではないかという問いである。
この両方の問いは、どちらも解離の本質に迫り、またこれらに対する安易な回答は非常に大きな誤解を招く可能性がある。ただしこれらの問いが発せられるだけまだいいのかもしれない。多くの場合臨床家は問うまでもなく、すでに「子供の人格は一切相手にするべきではない」という回答を出しているかもしれないからだ。


まずは最初の問いである。あくまでも子どもとして接するべきであろうか?
まず単純な答えとしては、もちろん子供として接するべきであるということだ。それは例えていうならば、母親が子供を連れて面接室にやってきた状況に似ている。最初は母親が治療者と話していたが、途中から子供の方が話しかけてきた場合、治療者はどうするべきだろうか。
 その時に治療者がその子供に対して、「大人が演じているものとして」対応するとしたら、「あなたは子供のように私に甘えたいんですね。」となるであろうが、その子供は何のことが分からなくてきょとんとした目をするだけだろう。話しかけているのは母親に対してではなく、あくまでも子供自身に対してだからである。
 ただし私のこのたとえでは、子供の横に母親がいるというところが重要である。実際に子供の人格が登場する時に、背後に大人の人格が見え隠れすることが多い。やはり子供の人格だけでは心配ということだろうか。子供の人格が前面に出ていて、大人の人格が後ろで観察しているという場合も多い。
治療者が子供の人格をそれとして扱わない場合にはどうなるのだろうか? 大人の人格が後ろで見ている場合には、その治療者の様子を見て「ああ、この治療者は私の子供の人格のことを受け入れてくれないようね。じゃ私が代わらなくちゃ。」ということになるだろう。ここにはその治療者に対する「気遣い」すらありうる。そして子供の人格が引っ込んで大人の人格が再び登場すると、治療者はこう言うかもしれない。「多重人格と言われる人たちの別人格、例えば子供の人格は、それを扱うことで出続けるのです。私は扱わない主義なので子供の人格などは出てきません。その意味でDIDは医原性ともいえるのです。」子供の人格がこの様に時には中途半端で、治療者の対応の仕方に応じて変わることは、一部の治療者の解離現象に対する無理解を助長することにもつながるのである。

子供の人格に応対する時のもう一つの問いについて考えよう。それは「子供の相手をまともにすることにより、子供の出現が定着してしまうのではないか」というものである。実はこの問いに対する答えは微妙なものとなる。それは確かに場合によっては短期的にではあれ子供の出現が「定着」してしまう可能性があるからだ。そしての定着の仕方によってはそれが本人のために好かったり悪かったりもするのである。この事情は、おそらくこのブログで書いているようなペースでしか十分な説明はできないであろう。