2014年2月10日月曜日

日本人のトラウマ(5)

3章「凶悪犯罪と自己愛トラウマ」-秋葉原事件を読み解く

はじめに
本章では、2008年に起きたいわゆる「秋葉原通り魔事件」をとおして、自己愛トラウマの問題について考える。
この事件は2008年6月東京秋葉原で発生し、7人が死亡、10人が負傷したというものである。その唐突さと残虐性のためにおそらく多くの私たちの心に鮮明に記憶されているだろう。犯人の運転する2トントラックは、交差点の赤信号を突っ切り、歩行者天国となっている道路を横断中の歩行者5人を撥ね飛ばした。トラックを降りた犯人は、それから通行人や警察官ら14人を立て続けにダガーナイフでメッタ刺しにしたのである。
犯人は青森県出身の25歳の男性で、岐阜県の短大卒業後、各地を転々としながら働いていたという。「生活に疲れた。世の中が嫌になった。人を殺すために秋葉原に来た。誰でもよかった」などと犯行の動機を供述したが、携帯サイトの掲示板で約1000回の書き込みを行っていたという。携帯サイト心のよりどころにしていたわけだが、そこでも無視され続けたという思いが募り、さらに孤立感を深め、殺人を予告する書き込みを行うようになっていった。当日の犯行の直前にも、沼津から犯行現場まで移動する間に約30件のメッセージを書き込んでいたという。
この事件の直後、当時の官房長官は刃物の所持規制強化を検討すると述べた。また千代田区は秋葉原の歩行者天国を当分の間中止することを決め、区立の小中学校に子供達の精神ケアを行うカウンセラーを派遣することを決めている。さらに犯人が派遣社員であったことから、若者の雇用環境が厳しくなっていることが将来に希望を失い、事件の動機になったとする見方も出た。事件後複数のサイトにおいて、殺人などの犯罪予告が相次いだ。ほとんどが悪戯とされているが、小中学生が行ったものもあるという。
さて極めて凄惨な出来事であり、日本人を震撼させたとはいえ、既に旧聞に属しかけたこの事件について私が考察する理由がある。それは犯人が最近になり獄中から手記を発表したからだ。それが「Psycho Critique 17[解](JPCA, 2012年)」である。そしてその手記を読む限り、犯人の自己愛の傷つき、「自己愛トラウマ」が関係していると考えられるのである。
ところで本章では私は犯人でもあり筆者でもある男性を「KT」とだけ記すことにする。もちろん彼は加藤某という実名で書いているわけだが、なぜか私は本章で彼の実名を出すのがはばかられる。また秋葉原で起きた事件についてもできるだけ詳述を避け、「事件」と書くことにする。それはこの事件の直接の内容に触れることに後ろめたさがあるからだと思う。軽々しく論じられないほどに多くの人々が犠牲になっているのだ。
 もっと言えばこの「解」という書が刊行されたことにも疑問を覚えるところがある。多数の人々を殺傷した人間が、なおかつ自分の考えの表現の機会を与えられていいのだろうか。この種の自己表現は、KT自らが認めているように、「誰かが自分のことを考えている」と想像することが可能になる為に彼にとっての癒しとなる部分があるのである。それゆえこのような本は、せめて彼の話を聞き取った第三者が著すべきではないかという気持ちはある。だから彼の「解」を読んで感想を書く私達もある意味では「同罪」かもしれない・・・・。
本書はKTが事件に至るまでの体験の記述であるが、その細部にわたり解説を加えることは紙数の関係で不可能である。そこで本章ではKTについての精神医学的な診断に基づいた議論を主に行おうと思うが、その前に彼が「事件」を起こすまでの人生についての記述の中で、二つ注意を引いた点を述べておきたい。
一つはKTの人生の中で特徴的な、極端でおそらく病的な「寂しがりや」の傾向である。彼は「高校時代は昼間は学校に行き、授業が終わると友人宅に直行して深夜まで遊び、休日は朝から友人と遊んでいました」(p.16)とし、高卒後進んだ短大でも、寮生活で常に誰かと一緒に過ごし、長期休暇は高校時代同様友人宅に泊めてもらったという。つまり彼は人生の一時期までは、常に誰かと一緒に過ごすということ以外の生き方をしてこなかったことになる。そして埼玉の工場に派遣で働くようになってから、仕事が終わり寮に帰っても寝るには早すぎ、そこで初めて一人ですごす時間が出来た。それが彼にとっては地獄だったというのだ。彼は世の中から自分がたった一人取り残された感じがし、それは「マジックミラー越しに世界を見ているようなもの」(p.16)であったという。つまりこちらは相手を見えても、相手が自分のことを見ていない。その状態が恐怖となるのだという。
 もう一つは、KTが心に人を思い浮かべる際の特徴である。彼は寂しさを紛らわすために、心の中に誰かを思い浮かべればよかったのではないか? これについて彼自身が書いている。「私が頭の中に友人を思い浮かべても、その友人は私のことは考えていない、と私は感じてしまうのだ」(p.17)。そしてそのようなKTが、やがて孤独感を癒す方法としてインターネットの掲示板を利用することが出来ることを知る。掲示板へのメッセージに対して投稿すると、それに対して即座にメッセージをくれる人がいることで、彼はその人が事実上そばにいるのと同じであると感じることが出来、一息つけたのである。こうしてKTはインターネットの掲示板に依存し、心の支えとして行く。そしてその支えの破綻が秋葉原での「事件」を生む間接的な原因ともなるのだ。
以上の二点はKTの診断を考える上で大いに参考になるのであるが、ここからは読者が「解」についての内容は把握していることを前提として、KTについての診断的な理解へと歩を進めたい。

KTの診断は何か?

診断とひとことで言っても、それを実際の人間に下すことは容易ではない。ましてやKTに直接対面したことのない私が安易に診断を口にするのは不用意かもしれない。だから私の論述はあくまでも本書「解」を読んだ上での「診断的な理解」についての考察であることをお断りしておきたい。
人間の心理は複雑である。誰ひとりとして一定の決まったパターンに合致した思考や行動を示す人はいない。しかしある深刻な事件が生じた時に、私たちはそれが起きた原因を知りたいと欲し、犯行の動機を一元的に説明しようとする。
「何かの原因があるはずだ。」
そして「解」を読み始めた私も同様に「事件」の「解(答)」を求めて読み進めた。しかし「解」を読み終えて、それも幻想であったことをあらためて思う。「解」そのものがさまざまな、一元的には説明不可能な情報を伝えているし、「解(答)」もそれだけ複雑でファジーなものにならざるを得ない。そしてそれは私の心にある「解(答)」でしかなく、本書に登場するほかの方々のそれも、それぞれ独自なものとなっているはずだ。
人を一元的に理解し説明する一つの試みが、精神医学的な診断というラベリングである。ラベリングは一種の決めつけであり、レッテル貼りであるが、少しは理解の役に立つ。「ラベルは、剥がすために貼るものである」と私はいつも言っているが、とりあえず貼って、貼り心地を見るだけでもいいのだ。気に入らなかったらいつでも剥がせばいい。
<境界パーソナリティ障害か?>
その心づもりでKTの精神医学的な診断の可能性を考えてみよう。おそらく境界パーソナリティ障害(以下BPD)は比較的容易に当てはまるように思う。慢性的な自殺願望、孤独の耐えがたさ、攻撃性、「自分のなさ」、白か黒かの考え、感情の激しさ・・・。DSMがBPDについて挙げている結構な数の診断基準を満たしている。「KTがボーダーだって?」と言われるかもしれないし、私も自分に「本気かな?」と問うている部分がある。しかしそれは診断がラベリングであるということを思い起こせば消える疑問である。もちろんKTは一般的なBPDのプロフィールには合致しない。BPDは女性に多いことが知られているが彼は男性であり、またリストカットや自殺企図があるわけではない。しかしそれでも彼は診断基準を結構満たすのである。
<反社会的パーソナリティ障害か?>
二つ目の診断としては、反社会的パーソナリティ障害(以下ASD)が思い浮かんでもおかしくない。しかしこれは意外に当てはまりにくい可能性がある。ASDは、DSM的に言えば、法律を遵守しないなどの違法性、人をだます傾向、攻撃性、良心の呵責のなさ、の4つの柱があり、これらがその人の行動にパターン化している必要がある。このうち法律を守らない、人をだます、という傾向はKTにはあまりなさそうなのだ。借金を踏み倒すどころか、むしろ遠路はるばる返済しに行き、相手に感謝されるというエピソードが紹介されているくらいである(p.42)。KTは人と関係を結ぶためには正直にもなるというところがあるのだ。
攻撃性や良心の呵責のなさにしても、あまりすっきりとは当てはまらない。多くの人々を殺傷するなどは攻撃性の最たるものではないかと思われそうだし、それらを根拠に攻撃性の基準を満たすと考えたとしても、彼の場合それが彼の日常的な行動の中にパターン化したかといえば、そうとも言えないのである。(ただし彼のあからさまな攻撃性は中学時代にも見られたことが「解」で述べられている(p.164)。KTは中学生のころ、クラスメイトを思いっきり殴り、失明させる危険があったほどだったという。そして半年後に彼は再び同じクラスメイトに対して暴力的行為をとったという。)
良心の呵責のなさについては、これこそはKTに典型的に当てはまりそうだが、これ一つではASDの根拠としてはあまり説得力がない。
ここで念のためDSM-IVのASDの診断基準の一部を示そう。
A.他人の権利を無視し侵害する広範な様式で、15歳以来起こっており以下のうち3つ(またはそれ以上)によって示される。
1. 法にかなう行動という点で社会的規範に適合しないこと。これは逮捕の原因になる行為を繰り返し行うことで示される。
2. 人をだます傾向。これは自分の利益や快楽のために嘘をつくこと、偽名を使うこと、または人をだますことを繰り返すことによって示される。
3. 衝動性または将来の計画をたてられないこと。
4. 易怒性および攻撃性。これは、身体的な喧嘩または暴力を繰り返すことによって示される。
5. 自分または他人の安全を考えない向こう見ずさ。
6. 一貫して無責任であること。これは仕事を安定して続けられない、または経済的な義務を果たさない、ということを繰り返すことによって示される。
7. 良心の呵責の欠如。これは他人を傷つけたり、いじめたり、または他人のものを盗んだりしたことに無関心であったり、それを正当化したりすることによって示される。
(高橋三郎,大野裕,染矢俊幸訳 (2002): DSM-IV-TR精神疾患の診断・統計マニュアル.医学書院,東京)

どうだろうか? KTに関しては1は微妙。2も微妙。3は満たし、4も満たすとしよう。しかし5も微妙、6もイマイチ。7は満たす、となるとギリギリ3つとなる。いちおうASDと診断してよさそうだが、あまり典型的ともいえないのだ。
<やはり可能性の高いアスペルガー障害>
さて三番目の診断は、当然ながらアスペルガー障害である。KTの精神鑑定の進捗状況は知らないが、アスペルガー障害ないしは広汎性発達障碍(PDD)の可能性についてはおそらく問われることになるであろう。私はこれを一応KTの診断とする。しかし「仮の」としておこう。というのは以下のとおり、この診断は実は微妙な問題をはらむのである。
まず以下に参考のためにDSM-IVにおけるアスペルガー障害の診断基準を示そう。

A.以下のうち少なくとも2つにより示される対人的相互反応の質的な障害:
(1)目と目で見つめ合う,顔の表情,体の姿勢,身振りなど,対人的相E反応を調節する多彩な非言語的行動の使用の著明な障害
(2)発達の水準に相応した仲間関係を作ることの失敗
(3)楽しみ,興味,達成感を他人と分かち合うことを自発的に求めることの欠如(例:他の人達に興味のある物を見せる,持って来る,指差すなどをしない)
(4)対人的または情緒的相互性の欠如
B.行動,興味および活動の,限定的,反復的,常問的な様式で,以下の少なくともlつによって明らかになる
(l)その強度または対象において異常なほど,常同的で限定された型のlつまたはそれ以上の興味だけに熱中すること
(2)特定の,機能的でない習慣や儀式にかたくなにこだわるのが明らかである.
(3)常同的で反復的な街奇的運動(例:手や指をばたばたさせたり,ねじ曲げる,または複雑な全身の動き)
(4)物体の一部に持続的に熱中する.

(高橋三郎,大野裕,染矢俊幸訳 (2002): DSM-IV-TR精神疾患の診断・統計マニュアル.医学書院,東京)

このように見る限りでは、KTはこれらの基準を十分に満たさないようにも思える。少なくとも「解」から私たちが知る限り、彼は学校を卒業するまでは、「常に友達と一緒に過ごしていた」ことになっているのである。もし彼に「(A2)発達の水準に相応した仲間関係を作ることの失敗」が見られるとしたら、彼の社会的な孤立は学生時代のかなり早期から起きていたはずである。しかしKTの記述からは、かなり友達にサービス精神を発揮し、友達が喜ぶのであれば自己犠牲的に物や情報を提供していた様子が伺える。
 「(A3)楽しみ,興味,達成感を他人と分かち合うことを自発的に求めることの欠如」については、それどころか、KTは自分の趣味に関することではあるが、それらを積極的に友達と分かち合うことで、孤立を避けていた可能性がある。
Bの「行動,興味および活動の,限定的,反復的,常問的な様式」については不明である。KTはインターネットでのゲーム等に精通しているようであり、その意味ではこのBを満たしている可能性はあるが、それを積極的に伺わせるようなエピソードは、「解」を読んでも特別浮かび上がってこない。むしろKTの頭にあったのは、いかに他人との交流を維持し続けるか、いかにそのために他人の関心を保ち続けるかということのみにあったようである。
PDDの診断基準には直接かかわってこないながら、KTの場合おそらく言語的なコミュニケーションもあまり得意でないはずだ。彼は文中で自分で相手に気持ちを伝えることがなく、いきなり行動に移ってしまうという点を自省しているが(p.93)、それがおそらく証左だろう。そのかわり彼の文章は達者な方と言っていいだろう。(もちろん「解」がゴーストによらず実際に彼の手によるものと仮定した場合である。)インターネットの掲示板への書き込みも、その思い入れの詰まった表現や、他人の書き込みのもつ微妙なニュアンスの読み取り方も、かなり芸が細かい。
それではKTはアスペルガー障害ではなかったかといえば、私の理解するアスペルガー障害には合致する面があるのである。私はアスペルガー障害の主たる病理は、共感性の障害であると理解している。共感性とは相手の気持ちを感じ取る能力である。目の前にいる人の喜びや痛みを自分の心のスクリーンに映して感じ取る力。他人を精神的身体的に傷つけることに対する抵抗もそこから生じる。人を傷つけることは、自分にとっても「痛い」ことなのだ。逆に相手の喜びは自分のものとして感じることが出来るために、相手を喜ばせ、心地よくさせることも自然に行なうことができる。そうやって対人関係が成立し、継続していく。
 共感能力には、相手が「考えていること」もその対象に含まれる。私たちがコミュニケーションをする際、相手が何を思って話しかけてきているのかを直感的に感じ取り、それに対応することが出来る。それが出来ないと「空気が読めない」ということになり、集団から仲間はずれになる。

KTの病理を考える際、ここで精神医学の専門家は引っかかることになる。彼の手記には、彼が友達づきあいをし、時には人にサービスをする為に自己犠牲精神を発揮することをいとわない点に注目し、この種の共感能力は不足していないのではないかと考える。その点は私も同感であり、したがってDSMによるアスペルガー障害の診断というラベルも「貼りつき」にくいことは認める。そのために「他に分類されない広汎性発達障害PDDNOS」あたりが無難ではないかとも思う。つまり準アスペルガーとしてその病理を位置づけるわけである。