2014年2月11日火曜日

日本人のトラウマ(6)

KTに見られる怒りの特質-アスペルガー障害の「自己愛トラウマ」

それにしてもKTの凶行は凄惨であった。命をなくした7人の方々やご遺族、10人が負傷した方々にとっては、まさに耐え難い体験であったはずだ。「どうして自分立ちや自分たちの家族がこんな目に遭わなければならなかったか・・・」とさぞかし無念であったろう。KTはこうして怒りを表現した。しかし理不尽にも犠牲になった方々の怒りはどう表現され、どう処理されるべきなのだろう・・・・。
このようにのべたからと言って、アスペルガー障害の人々は危険であるという一般化は決してできない。それだけははっきりさせておこう。しかし彼らが時に示す激しい怒りの背後には、彼らの発達障害の病理が深く関係しているお思わざるを得ない。それが人の気持ちを推し量ることの困難さである。
一般にアスペルガー障害の人々は他人の気持ちを読み取ることが不得手である。ただしそれは不可能、ということとは違う。事実アスペルガー障害という診断をつけることにあまり躊躇しないケースに関しても、多くの場面で他人の気持ちを読み取り、感じ取ることが出来ることは確かだ。アスペルガーの人たちの大部分は、対人関係を求め、それが得られないことを苦痛に感じる「寂しがり屋」である。
 ところがやはり彼らの一部においては、対人コミュニケーションには特徴、いや欠損があると考えざるを得ない。それはしばしば彼らの猜疑心や被害念慮という形で現れる。それは彼らが持つのはコミュニケーションの微妙なレベルの障害であることも関係している。全く通じないのであればまだわかりやすいのだろう。しかしそれが一見気持ちが通じているようで実は通じていない対人関係を築くということが大半なのだ。はじめは微小だった人との関係の齟齬は常に生じては徐々に、あるときは劇的に拡大していくのである。それがこの「事件」につながったと考える根拠は十分にある。そして徐々に周囲から去られる運命にある。時には明白に、時には微妙なかたちで拒絶を受ける。KTの場合には多くの友人の離反であり、最終的に頼りにしていたインターネットの掲示板における人々の無反応であった。それはKTの自己愛に対する痛烈なトラウマとなるのである。そしてそれが途方も無い攻撃性の発露に至ってしまったのだ。

KTを「自己愛トラウマ」から救えたのか?

私たちはKTに対して何かの形でのかかわりを持つことで、事件を未然に防ぐことが出来たのだろうかという問題について考えたい。これほどの事件を起こした男に「治療」は論外かもしれないが、少なくとも同様の事件の防止策については考えるに値するだろう。
「解」の最後でKTが「事件」の原因として3つあると自己分析している部分がある(p.159)。それらは彼が掲示板に依存していたこと、掲示板で実際に起きたトラブル、そしてトラブル時のKTのものの考え方(間違った考え方を改めさせるために相手に痛みを与える、という、「解」で繰り返して登場するロジック)である。そしてこれら3つが重なることで「事件」は起きたのだから、防止策はそれを防ぐこと、という風に彼は説明している。ここで一つ気が付くのは、これらの問題はあたかも彼の行動や思考上の誤りとして説明されているが、そこに感情の要素が言及されていないことだ。
「対策とは」という項目の冒頭(p.150)で、KTは次のように述べている。あくまでも再発を防止しなくてはならないのは、「むしゃくしゃして誰でもいいから人を殺したくなった人が起こす無差別殺傷事件」ではなく、「一線を越えた手段で相手に痛みを与え、その痛みで相手の間違った考え方を改めさせようとする事件」である、と。つまり彼の起こした「事件」は後者であり、そこに怒りやそれに任せた殺傷という要素を否認するのだ。そして、「(正常なら)ふつうは事件なんか起こさない、という言われ方」に反対し、「普通か否かは思いとどまる理由の有無でしかない」という。
KTのこの主張は、「事件」に至った経緯にはある種の必然性の連鎖があり、それがたまたま途中で中断されることがなかったために「ドミノ倒しのよう」に最後の「事件」に行きついたというものである。そしてそのような事態は、彼が挙げた三つの誤りを犯し、そのプロセスを止められない場合には、ほかの誰にも生じうると訴えているかのようである。
 そのプロセスを止めるために必要な策としてKTが挙げているのが「社会との接点を確保しておくこと」であるという。そしてさらに具体的には、ボランティア活動を行ったり、サークルや教室に通ったり、何かの宗教に入信することであり、さらには「自分の店を持てば『客のために』と、社会との接点を作ることが出来ます」(p.158)と述べる。
このKT自身の語る防止策を読んだ私の感想を少し述べてみよう。KTの心の動きにはいくつもの病的な傾向がみられる。特に「事件」に関連して何が決定的に問題かと言えば、それは生身の人間をナイフで無差別的に刺殺するという行為に尽きる。あるいはもう少し言えば、そのような行為を自らが行ったということに対する彼自身の自責や反省の希薄さである。それは彼がそれなりに一生懸命取り組んだであろう「自己分析」が触れていない部分であり、それゆえに彼の病理の核心であるといえよう。
 仕事がうまく行かず、だれからも顧みられず、怒りや復讐心が高まって暴力行為に及んでしまう、ということは、ファンタジーのレベルでは多くの人が体験するのだろう。「事件」の直後に、KTの気持ちがわかると述べた人々が少なからずいたという話も聞く。しかし彼らとKTとの決定的な違いは、やはりそれを実行するかしないかということだ。そしてそれを実行したKTについては、それはゆがんだ攻撃性の発露であり、そのことを彼自身が否認する傾向とも関連した深刻な病理の表れといえる。
彼の攻撃性の否認傾向を示す上で、「解」の最終項目「反省の考え方についての補足」における記述をあげたい。先に見た中学時代の殴打事件についてである。詳しい記載は避けるが、この事件についてのKTの記載の中で一つ明らかな矛盾がある。それはこの事件が「相手に間違った考えを改めさせようとした」と言いながらも同時に、「かっとなって」行った行為でもあると言っている点である。KTはこのエピソードはインターネットの掲示板における「成りすまし」とのトラブルとは異なると言っているが、殴打事件と秋葉原の「事件」の動因を同様のものとして説明している以上は、むしろ「事件」が結局は「かっとなって」行った可能性を示唆しているといえないだろうか。後者の方がもちろん冷静沈着に事件を計画したという面もあろう。しかしその背後にあるのは、成りすましからの攻撃を受けて「完全にキレ」「ケータイを折りそうになった」(p142)ほどの怒りに端を発しているとみていい。そしてその部分が否認されているのだ。
 しかし私はKTが激しい怒りを暴発させた結果がこの殺傷事件だったのであり、その尋常でないほどの怒りの度合いこそがKTの病理であると主張するつもりはない。通常の怒りは、それを直接起こした対象に主として向けられるのであり、たとえそれが暴力を伴ったとしても、その相手への攻撃が反撃を引き起こし、格闘のような形で結果的に相手を殺傷してしまうという形が一番典型的と言える。しかも相手への怒りは、相手が傷ついたことを目にすることで急速に醒め、激しい罪悪感と自己嫌悪が襲うというのが通例である。復讐を遂げた後に自殺をするという経緯がよく見られるのはそのためであろう。
 ところがKTの場合、その攻撃性の背景にあったのは怒りや恨み、復讐の念でありながら、それらの感情の存在自体は否認される一方では、歩行者への攻撃は無差別的かつ執拗で、あたかも機械的に、感情を伴わずに行われているというニュアンスがあるのだ。
 私はここに見られるKTの性質は犯罪者性格のそれと同類とみなしていいと思うが、もしそうであるとするならば、彼の示す「防止策」も、反省内容もことごとく見当外れということになりかねない。KTが中学時代にこの種の行動をとっていたということは、その時に対策を取っていればよかった、というたぐいの問題ではなく、むしろ彼は思春期の時点で犯罪者性格の条件をおそらく備えていたであろうことを意味しているのだ。そしておそらく幼少時からその兆候はあったであろうと想像する。
それでは彼は生まれつきの精神医学的な問題を抱えており、手の施しようがなかったのだろうか?
「解」を読み進めて一つ印象深かったのは、たとえ彼の病理がいかなるものであろうと、KTは他人からの肯定を強烈に求めていたということだ。他人がいて、他人の視野に入ってこそ自分が生き延びることが出来るかのようである。そして他人から無視された時には強烈なトラウマ(自己愛トラウマ)を味わっていたということである。
 彼がそばに自分を肯定してくれる存在を持っていたなら、事態はずいぶん違っていた可能性は否定できないと思う。何人もの刺殺という悲惨な「事件」をどこまで食い止められたかはわからないが。そしてそのような存在を常に持つ一つの方法としては、心理士による支持的なカウンセリングがあげられる。KTには特異な思考プロセスや、人がものにしか見えなくなってしまうという病理がある。それらを根本的に変えることはできない。しかし心の病理はある程度心が充足している場合には発現しにくいものである。その意味で支持的なカウンセリングの効果はそれなりに期待できるだろう。
もちろんカウンセリングを受ければそれでいい、というわけではない。KTが安定した治療関係を維持できていたという保証はないからだ。しかし彼が定期的に通って自分の気持ちを表現できるような場所、そこに週に一度通うことが期待されている場所を確保していたら、あれほど悲惨な結果にはならなかったのではないか。少なくとも「事件」に対する強力な抑止効果はあったのではないだろうか、と私は考える。なにしろの「肯定された」感は、友達からの「半年後に遊びに行く」という一通のメールだけで充足されてしまうという性質を持っていたのだから(p.37)。
ただしカウンセリングを受けるためには、普通は一回に数千円から一万円あるいはそれ以上のお金がかかる。それが払えずにカウンセリングをあきらめている人も多いであろう。精神科の通院精神療法を利用するという手もあるが、その為には敷居の高い精神科外来を訪れる必要がある。これは多くの方には抵抗があるだろう。KTがこれらのハードルを乗り越えることが出来たかどうかはわからない。
以上で私の考察をひとまず終えるが、この「事件」を考えることはアスペルガー障害を持つ人とかかわる意味をいくつか示唆していることを示せたと思う。しかし何度も繰り返させてほしい。ほとんどのアスペルガー障害を持つ人はこのような犯罪にかかわるほどの自己愛トラウマを体験しないのであり、彼らに対する差別的な見方を提供するのが私の意図ではないということである。