東京は昨日は大変な雪。でも私が子供の頃、関東ではこんな雪はあまり珍しくなかった気がする。外出の方、お気を付けて。
「抑圧-発散モデル」は、日常体験により近い
「抑圧-発散モデル」は、日常体験により近い
ところでここで紹介している「抑圧―発散モデル」の考えを支持する多くの人はこのモデルとフロイト理論とのつながりなど知らないのが実態であろう。そもそも一般人の大部分はフロイトの著作などは読んだことはないし、特に関心を向けているわけでもないはずだ。「抑圧―発散モデル」に表されるような考え方は、むしろ俗説のようにして、精神分析理論とは無関係に一般人の間で流布しているのである。なぜならそれが私たちの日常体験に密着しているからである。
一番典型的なのが、生理現象だろう。消化の悪いものが胃に溜まることで嘔吐反射が生じ、吐き出すことで爽快感を得る。溜まった排泄物を一気に出し切ることにより楽になる。性的な欲動もまたこのモデルによく従うことはご存知だろう。
ただしこの「抑圧―発散モデル」が当てはまるかどうかが微妙な生理現象も少なくない。単純な例として咳を考えよう。会議中などに咳を堪えていた人などは廊下に出て一気に咳をして治まることもあるだろう。しかし場合によってはそれがかえって気管の粘膜を余計に刺激してしまい、咳が止まらなくなってしまうということもある。あるいは癲癇を考えてみよう。癲癇発作の後には一時的に閾値が高くなり、かえって発作がおきにくくなることが知られている。あたかもそれまで貯まっていたエネルギーが発散されたという印象を与える。しかし時には一度始まった癲癇がとまらずに「重積状態」になることも知られているのだ。
怒りに関する「抑圧-発散」モデルについても、実はそれに当てはまらないケースが日常生活で観察される。確かに激しい怒りを表現した後、人は反省の気持ちが湧いたり、自己嫌悪に陥ったりすることも多い。また別の人にとっては怒りにより人を傷つけることで目的が達成されたことになり、怒りは消失するだろう。これらの例においては怒りは「抑圧―発散モデル」に従っていることになる。ところが人によってはいったん始まった怒りの表現はさらにエスカレートし、しばらくはその嵐を見守るか、あるいは力により押さえ込むしかないという場合もある。冒頭で述べた「ガス抜き」も、為政者はまさにこの両方の可能性を想定して注意深く用いなければ、一気に政権の転覆にまで発展するということすらおきかねないのである。
二つのモデルで「アスペルガー障害」の怒りを理解する
-「浅草通り魔殺人事件」を例に
怒りの「自己愛トラウマモデル」と「暴発モデル」のどちらが正しいのか。それは難しい問題だが、モデルとして両方持っておくのは悪くない。実際怒りが問題となるケースではこの両方のモデルが必要となることもあるのである。そのことを、アスペルガー障害における怒りの問題を通して考えよう。
2001年4月30日、東京の浅草で19歳の短大生が刺殺されるという事件が発生した。犯人のレッサーパンダの帽子をかぶった奇妙な男の写真を覚えている方も多いだろう。札幌市 出身で当時29歳の無職のこの男は、普段は非常におとなしい性格だったというが、友達になりたいと浅草の繁華街で見かけた女性に声をかけようとして、結局この凶行にいたったという。「歩いていた短大生に、後ろから声をかけたらビックリした顔をしたのでカッとなって刺した」と供述しているとのことである(6)。
実際にこの例を出したのは他でもない。私たちが日常であったりメディアで接したりする怒りの多くは同様の不可解さを少なからず備えているからだ。この事件でも青年は普段はおとなしく、この種の暴力行為は予測しがたかったと言われている。そしてこの「びっくりした顔をしたのでカッとなった」という説明などはほとんど意味不明である。
私はこの事件に直接かかわったわけではなく、公に報告された情報以外は持たないが、ひととついえることは、この種の怒りの理解はやはり「抑圧―発散モデル」と「自己愛モデル」の双方(もちろんそれでも足りないといわれればそれまでであるが)が必要なのである。そして男がアスペルガー症候群(広範性発達障害のひとつ)であったことも重要な決め手となる。
ここからは私の憶測であるが、男はおそらく普段他人から相手にされていないことにいらだち、フラストレーションをためていたという可能性がある。アスペルガー症候群にしばしば見られるのはこの種の被害者意識であり、自分を理解しない社会への憤りである(7)。興味を持った女性に対して向けられた攻撃性の一部はそれに関係しているのだろう。そしてここまでは「抑圧―発散モデル」である程度説明ができる。
さらにはおそらく男はこの若い女性に「びっくりされた」ことにプライドを傷つけられた可能性が大きい。馬鹿にされた、というのが体験としては近いのではないだろうか。つまり「自己愛トラウマ」だった可能性があるのである。もちろんそう感じた思考過程はブラックボックスの中であるが、人の表情に見られる感情表現を誤認する、あるいは理解できないという問題は特にアスペルガーの患者さんたちに顕著である場合が多い(7)。レッサーバンダ帽の男が、女子短大生の驚きという、状況からは自然な表情を別のものと誤認してプライドを傷つけられたと感じ、怒りを暴発させた可能性は十分にある。そしてこちらは「自己愛モデル」による説明となるのだ。
最後に-対応へのアイデア
「抑圧―発散モデル」と「自己愛トラウマモデル」による理解により怒りに関する学問が大きく進展する保証はないだろう。ただ怒りの暴発に対応する上でのいくつかのヒントを与えてはくれる。それに簡単に触れて本章を終えたい。
怒りへの対応の重要なヒントは、怒りを爆発させている人に対する非難や叱責はおそらくほとんど効果がないということだ。なぜならば彼らはすでに被害者としての意識が高いからである。彼らをさらに非難することはその被害者意識を増幅させ、まさに火に油を注ぐような結果を招きかねない。
しかしもちろん怒りや攻撃性を野放しにすることはできない。結局彼らに対する意味のあるかかわりとは、その怒りをコンテインすること、枠組を提供することなのである。非難や懲罰のメッセージを含まずにそれ相応の処理をし、現実への直面化をうながす。そして少なくとも彼らの自己愛の傷つきの部分については共感することが重要であろう。
怒りの発散を回避するために有用なスキーマ(考え方のパターン)を提供することも時には有用であろう。もちろん「鉄は冷めてからうて」のアフォリズム(!?)どおりに、興奮が冷めたころを見計らって彼らに語りかけるのだ。あいにくアスペルガーの人たちは認知療法的なプロセスになじまないことが多いが、彼らのこだわりと戦おうとすることなく、むしろその裏を突いたり「外し」たりすることでその世界観が変わり、怒りがトーンダウンすることもある。しかしどのようなスキーマが誰にいつ役に立つかはおよそ予測が付かないことが多い。
参考文献
(1)遠藤利彦「『正当な怒り』の発達」. 児童心理. 9:1169-1174, 二〇〇六
(3)Tavris, Carol: Anger: the
Misunderstood Emotion. Touchstone, 1982
(4)レオン・フェスティンガー (著), 末永 俊郎 訳 「認知的不協和の理論―社会心理学序説」 誠信書房 一九六五
(5)岡野憲一郎 「怒りについて考える-精神分析の立場から」 児童心理 9:1181-1185, 二〇〇六
(6)佐藤幹夫 「自閉症裁判- レッサーパンダ帽男の『罪と罰』」 洋泉社、二〇〇五
(7)十一元三 アスペルがー障害における臨床的問題の多様性 -年齢と精神発達に伴う変化- (講演) 第28回平成心身医療研究会 平成19年7月12日 ホテルメトロポリタンにて