子どもの人格が大人の情報を知っているということ
解離性障害の治療に携わるものにとって、子供人格と対面し、治療的な応対をすることは、治療者としてのキャリアーの一つの里程標であり、少し大げさに言えば「帰還不能点 point of no return 」というニュアンスすらあるように思う。多くの治療者が解離を扱うことで一種の色眼鏡で見られるということを体験する。「あなたもあちら側の人になってしまったんだね?」という憐憫の混じったまなざしを同僚から向けられることだってありうるのだ。身体のサイズとしては成人の子供人格とプレイセラピーを行なうことは、人格交代という現象を認め、受け入れることを意味する。しかし解離性障害を「信じない」立場の治療者にとっては到底そのようなかかわりは受け入れがたいということになるだろう。
たとえ人格の交代現象そのものは認めたとしても、何日か前にこのブログで述べた問題が頭をもたげる。「子供人格に『出癖』がついたらどうするのだろう?」「子供人格をそれとして扱うことで、医原性の人格交代を助長しているのではないか?」このように子供人格をそれとして扱うまでに治療者は二つの障壁を乗り越えなくてはならないのだ。
たとえ人格の交代現象そのものは認めたとしても、何日か前にこのブログで述べた問題が頭をもたげる。「子供人格に『出癖』がついたらどうするのだろう?」「子供人格をそれとして扱うことで、医原性の人格交代を助長しているのではないか?」このように子供人格をそれとして扱うまでに治療者は二つの障壁を乗り越えなくてはならないのだ。
解離性障害の懐疑論者にとって格好の攻撃素材となるのが、この表題に掲げた、人格同士の情報共有の問題である。子供の人格との会話で時々不思議に思うのは、その語彙の思いがけない豊富さだ。子供人格はしばしば幼児期に特徴的に見られるような発語の障害を示す一方では、3歳の子供の語彙にはないであろう単語が出てくることがある。たとえば「自動車教習所」などは普通は出てこないだろうし、理解も出来ないはずだが、ある3歳(自称)の子供人格はこのような言葉を理解し用いている。ここで不慣れな治療者の頭にはまたあの考えが頭をもたげてしまう。「やはりこの患者は子供の演技をしているだけではないのだろうか?・・・」「患者の演技に乗っている自分は、果たして治療者として振舞っていると言えるのだろうか?」
しかし実際に生じているのはDIDの方の持つ記憶や情報ソースには、別人格が時としてアクセスできるという以上の何も意味していないものと思われる。
しかし実際に生じているのはDIDの方の持つ記憶や情報ソースには、別人格が時としてアクセスできるという以上の何も意味していないものと思われる。