2013年5月20日月曜日

精神療法から見た森田療法 (14)


 さて中村先生の論文を読みおわったところで、また森田療法のテクストから外れる。後は私が自分で考えていくわけだ。しかし森田の骨組みを与えられたので少し安心した。と同時にテクストで与えられていない分を自分で補充していけばいい(するしかない)ということもわかった。
ところで518日(土曜日)の朝、日テレのみのもんたの番組に橋下さんが出てきた。彼の主張は別として、彼がある種の存在感を示し続ける一つの重要な要素があることをそのとき私は感じた。それは彼は「自分の主張が受け入れられなければ、自分はこの立場を退く」という覚悟を感じさせるということである。彼は弁護士であり、職業政治家ではない。私がしばらく前に書いた西郷ドンと同じである。「捨て身」といっても言い。また捨て身だからこそ、自分が心から思っていることがいえる。橋下さんは自分の人気が一時的なものであり、そのうち忘れ去られるかもしれないこともよくわかっているのだろう。
自分の行動について、これが最後かもしれない、といつも思うこと。それでもいい、というわけではないが、そうなることを覚悟しておくこと。それはある種のとらわれから私たちを自由にしてくれる。私は死ぬ直前でもジャケットのボタンを気にする、と書いたが、それは最後の瞬間まで「自分がどう見られているか」を意識せざるをえないということだ。人知れず死んでいく場合にはそんなことはどうでもいいことだろう。大勢の前での発表も、これでだめならもう一切講演を引き受けないまでだ、と開き直れれば億劫さや不安は軽減されるかもしれない。そう、何事に関しても、それに対する不安を軽減するのは、「うまくやろうとしない」ということではなく、「これが最後だという覚悟を持つ」であるように思う。少なくとも私にとってはそうだ。政治家なら、「うまく立ち回らないと、次の選挙で落選する」と思うことが問題である。「これで民衆が耳を貸さないのなら、落選をしてもかまわない」と思えることだ。
もちろんこう書くと次のように言われるだろう。「橋下さんは弁護士があるからいいでしょう。西郷さんは帰郷して耕す田畑があるからいいでしょう。でも職を失ったら給料がもらえず、家族が路頭に迷うサラリーマンにそんな覚悟は無理です。」
そう、その通りなのである。また職を失う覚悟で上司にたてつき、結局クビになり、一家を養えなくなるようなサラリーマンは最低ということになる。自分が誰かを支えている状態というのは、「だめなら職を去るまでだ」という覚悟を持つことができない。この世に係累をもつということは、とらわれを作ることであり、神経症的な不安を持つことなのである。
ところで係累ということについて言えば、私にとって死の恐怖は、かなりの分が「迷惑をかけることの恐怖」である。私は30人の患者を予定している外来を一日休むことは、一種の恐怖である。どうしてだろう?30人の患者が不自由を感じる。受付はたくさんの患者にスケジュール変更の連絡をしなくてはならない。それを想像するのが怖い。ただし同時にわかっていることは、そんなことはこの世で日常茶飯事だということだ。医師がインフルエンザにかかり、一日50人の患者のアポイントメントがフイになるというのはよくある話だ。そうでないと医師は病気にすらなれないことになる。また自分が患者の立場で、病院に行ったら休診といわれたらどうだろうと考える。それは不自由や苛立ちを感じるだろうが、この世の終わりというわけではない。かつて千葉から東京に通勤していたころ、帰宅時に突然東西線が運休になり、困ったことが何度かあった。同じような感じだろう。しかし自分がそれを人に及ぼすことが耐えられない。人に優しいというわけではなく、また私が自分のことをそれほど大事だと思うような自己愛的な人間というわけでもなく、ただ臆病なのだ。
自分が死ぬことで講演の予定がフイになる、授業が行えない、などなどで多くの人が迷惑をこうむる。もしそのような事態を避けたいならば、誰でも代わってもらえるような仕事につき、人知れずひっそりくらすしかない。でもそうすることは、私が死への恐怖を軽減する最良の方法なのだ。もちろん人との交流は続けたいが、最近はインターネットという便利な手段がある。