私は臆病だといったが、死をあまり恐れない人は、この種の臆病さが少ない人かもしれないと思う。豪胆な人、というべきであろうか。あるいは自分が消えることで皆が困ることを想像し、自分の存在の大きさを感じて楽しめる余裕のある人、と言えるかもしれない。その意味で自己愛的な人。三島由紀夫だってそうだったかもしれない。いや彼も自殺の前日にきっちりと「豊饒の海」の最後の章を編集者に渡したのだ。しかし彼の場合は、編集者に迷惑をかけないように、というよりは彼の作品を完結させて彼の自己愛的な世界を描き切ることの方が大切だったのではないか? うーん、人の死に方を考える時、三島の自決の仕方は自己愛という文脈からは非常に興味がある。もちろんすでにいろいろ研究されつくしているかもしれないが。
死の恐怖を克服する一つの手段としては、死を美化し、死そのものを快楽的にするということだろう。三島は神話となることで、真に武士道精神を具現した人として将来にわたって崇拝されるということをもし本当に考えていたとしたら、それは自己愛的な人にとっては自死へのモチベーションとなるのだろう。同様のことは自爆テロについてもいえるわけだ。特に彼らの場合、来世を信じ、アラーの神から72人の処女を与えられるというのであれば、死はもはや死ではなく、再生そのものということになる。死の恐怖への究極の防衛ということになるのであろう。
死後の世界を私は信じないが、来世を信じるくらいに強力な防衛を私は考えている。ここだけの話だが、書いてみよう。それは時間の体験が死に向かって限りなく緩徐になっていくという現象を想定するのだ。いわゆるパノラマ現象の一つと考えるといい。松本雅彦先生がどこかで書いていたが、彼はフランスで崖から車ごと落ちていったとき、これを体験したと書いてあった。これまでの人生が走馬灯のように。一瞬の出来事のはずなのにかなり長い時間に感じるという。一種の解離現象なのだが、「アキレスと亀」のように、時間の感覚が死に向かってどんどん乗数的に伸ばしていくのだ。人は永遠に死に到達しない。少なくとも体験上は・・・・・。まあ主体的な体験の話だから、それが起きえないということを証明はできないのかもしれないが、まず無理だろうなあ。