2011年5月15日日曜日

治療論 その8. (改訂版) 「治療者はセッション中にノートを取るべきか?」

治療者はセッション中に記録をとるべきか?これもあまりに色々なファクターが絡んでいるために、白黒を付けられない問題だが、よく学生やバイジーさんに問われる。精神療法に関しては、この種の問題が多い。「いちがいにどちらともいえない」という答えはどの問いに対してもほぼ同様に用意されているのであるが、その理屈が曖昧で、しばしば問われるのである。それに誰に指導を受けているかで大きく変わってくる場合がある。「セッション中にノートをとるべきでしょうか?」という問いは実は、「先生(バイザーのこと)は、バイジーにセッション中のノートの取り方についてはどのようにおっしゃっていますか?私もそのようにいたします(あるいはそうしていることにします)」ということだったりするのだ。ただしいかなる形でもこの種の問題は問われること自体に意味があることが少なくない。この問題について考える機会を与えてくれる、という意味では決して悪いことではないことだからだ。
本当はセッション中にノートをとるべきかどうかなどは、精神分析的な精神療法以外の治療法においてはあまり問題とされない。認知行動療法で「ノートをとるべきか?」を問うならば、もちろんイエス、となるだろう。セッション中に書き入れるフォームもあるくらいだ。ところが精神分析ではそうは行かない。フロイトが「治療者は患者の話を聞きながら、一つのことに注意を払うべからず」ということを言ったことから問題が始まった。フロイトの言葉としてしばしば引用される、治療者は「平等に漂う注意evenly suspended attention」をはらうべし、とはそういう意味であった。フロイトはもちろんノートを取ることへの反対派である。ノートを取るということは、聞いたことをまとめ、書き付けるということで、それが「平等に」ではなく、まさに一つのことに注意を払うことになってしまうからだ。
フロイトによれば、治療者は患者の話をボーっと、漠然と聞いていなくてはならない。それが治療者の無意識という名の「受診装置」(フロイト自身の言葉)により患者さんの話を聞くことだという。うーん、わかったような、わからないような。しかしフロイトと違って凡人の私たちは、ボーっと聞いていると何も思い出せなくなってしまうのだ。ところがそれに対してフロイトだったら、「いや、そういう意味での『ボーっと』じゃないのだ。どこにも注意しないで、でも一生懸命聞くのだ。全体を見渡すようにして聞いているからこそ、後からそのまんま再現できるのだよ」というだろう。
実際にフロイトはノートを取らずに聞いた話を、夜患者さんが帰った後に夜遅くまで再現してノートにつけたという。でもそれってフロイトの記憶力のよさではないか?実際にはセッションでノートを取らずに、後で再現できるかどうかは、個人の能力差が非常に大きくあり、おそらくそれは治療者としての力量とはあまり関係がないというのが私の印象である。
もちろんフロイト流に自由に心をめぐらせながら患者の話を聞いても、大体のあらすじなら十分に頭に入ってくるだろう。しかしそれはその間じっとその話に注意を向けている場合である。ところが時には、そのうち目がトロンとして眠くなってしまう場合もあろう。何もしないで話を聞くというのは、話が十分に興味をひく場合を除いては、集中している時間には限度がある。ふと余計なことを考えているうちに、患者の話しは先を行っていた、というのはよくある話だ。そしてノートを取ることは、時にはそれを防いでくれる。ノートを取るという行為を通して、注意が持続することもある。その場合はノート取りはあとで読み返すため、というよりは注意を持続させ、内容を整理しながら聞くための方法ということになる。それでセッション後の記録の作成の時間も短縮できるなら一石二鳥だ、という発想もある。
ちなみに、アメリカでの精神分析のトレーニングコースで学んだとき、ノートのことが話題になったが、講師であるシニアの分析家がこんなことを言っていた。「フロイトがあんなことを言ったので、皆最初はセッション中はノートを取るまいとするんだよ。でも私の知る限り、その結果は思わしくないね。大体は挫折するものだ。私の場合も、それは無理だとわかるのにあまり時間はかからなかったよ。」これには少し安心した。
ただしここでの話は、セッションのかなり忠実な再現をできるかという話であり、セッション中の山場だけを書くのであれば、ノートを一切取らずに後で思い出すことも問題はないだろう。逐一詳しいノートを取るのは、症例報告やスーパービジョンのため以外には、臨床的な意味はあまり必要はないだろう。実に詳しくノートを取っている心理士さんが多いが、「後で読み返すのですか?」と問うと、たいていは「いや、何となく習慣で。」という答えが返ってくる。
セッションのノートのとり方について現実的な考え方を示しておく。人にはそれぞれ異なる認知パターンがあるし、記憶力の差もある。その個人にとってもっとも適当と思われる方法をとればいい。一番無難なのはセッション中はキーワードのみをノートに書き込み、後はセッション後にその間を必要に応じた詳しさで埋めるという方法だ。これは多くの治療者が実践しているであろう。ただし一セッションが終わってからほぼ再現してノートに起こせる人は、必ずしもトレーニングを積んでいない人の中にも現実にいるのであるから、それらの人たちはセッション中はキーワードさえも書かずに終了後に思い起こして要点を書き残せばいいことになる。
以上の話には例外がある。私たちは時にはバイザーへの報告や症例検討会での報告のために、セッションのほぼ全体を詳しく再現する必要に迫られることがある。その場合記憶力に自信のない人はかなり一生懸命ノートをとることになるだろう。そうなるとノートを取ることに使うエネルギーにより、患者さんとのアイコンタクトをしたり、ノンバーバルなメッセージを逃したり、ということがおきるだろう。いつもと違ってある日急にペンを動かす治療者を見て、患者の側も不思議に思うかもしれない。これは一時的にではあれ患者治療者関係にとって決してよろしくないだろう。でもそれにより再現されたセッションが多くの情報を持つことになり、スーパービジョンや症例検討会にとって役に立つ場合もあるから、一長一短ということになる。
ちなみに症例報告で見事なセッションの記録が報告されたとき、助言者が「ところでこれほど詳しい記録をどうやってとったんですか?」ということを聞くのに出会ったためしがない。ここら辺はビミョーなのだろう。いっそのこと思い切って事情を患者に伝える? 別に隠すことでもないし、間接的に患者のためになることだから?ウーン・・・・
結局治療者がノートをとるかとらないかは、以上のことを加味した上で柔軟に決めよ、ということになる。セッション中にノートをとることは少なくともタブーではない。しかしやはり考慮すべき点は次のことだ。もし自分が患者の立場で何か悩みを治療者に打ち明けたら、治療者が一心不乱に記録を書き始めたら、どんな気持ちがするだろうか? 病院では最近はカルテの記入がコンピューター入力になったところが多いが、初診で患者さんの話から得られた情報を一身に入力していると、患者さんはこんなことを思っているかもしれない。「先生は、私がこんなに一生懸命話をしているのに、コンピューターばかり見て、カチャカチャやるのはやめてください!」 これもウーン・・・・・。