2010年9月30日木曜日

失敗学その18.  宮里藍に学ぶ

昨日見ていた宮里藍についての番組(NHK)で、こんなシーンがあった。ゴルフの練習ラウンドで、第1打目が非常に短くバンカーに入ってしまった。ついてまわっていたキャスターが「あの失敗のショットをどう感じましたか?」と尋ねると、「いえ、失敗というわけではありません。事実ですから、それにしたがって次を考えるまでです。(うろ覚えなので、細かいところは想像で補っているので念のため。)そこでキャスターは宮里の精神的な充実ぶりを印象づけられる。失敗ではなく事実・・・・。失敗学的には正解だ。

そもそも野球やサッカーや、あらゆるスポーツがそうであるように、ゴルフも蓋然性の競技だ。10m先のホールに、パターで100%入れる技術は求められているわけではない。もしプロが10回打ったら平均3,4回は入れるようなパターなら、それだけの成功率を発揮できる人がプロとして他の選手と互角で活躍できるだろう。そして彼らにとってはミスショットは特に失敗というわけではなく、10回打った際のハズレの番が回ってきただけである。また次に集中すればいい。

これはある意味では「ポジティブ思考で終わったくよくよしてはならない」というような話にも聞こえるかも知れないが、そうではないはずなのだ。むしろサイエンスであるといいたい。ところが人間の心は実はそのような動き方はしない。実際は失敗と感じ、落ち込む。実は宮里だって、淡々と事実と受け止めているかといえばそうではない。絶対一瞬落ち込んでいるはずだ。ホンのちょっとは。

もっとはっきりしているのは、今年の春のサッカーのワールドカップを思い出して欲しい。6月3日、決勝ラウンドのパラグアイ戦。そのPK戦で、駒野が外して敗戦となったが、彼はその瞬間に「事実、事実」と淡々としていたかといえばもちろんそうではない。見ていた人も「なんだ、駒野、駄目じゃん」となっている。彼が一瞬ではあれ、ちょっと下手っぴに見えたはずである。そしておそらくそれにもリアリティがあったのだ。

私はこう考える。

実はパターを外した時、おそらくほんのちょっとの失敗が入っているのだろう。それを打った本人は微妙に感じ取り、調整しなおす。それが次の一打をほんの少し、うまく打たせるのだろう。このような微調整、限りない努力を行うという条件を含めて3割の確率というわけだ。宮里が外したのは、「事実」であり同時に「失敗」でもある。それを「事実」に過ぎないと自分に言いくるめて、しかし失敗の要素を微調整により改善して次のショットに望むことが出来るのが実力、というものの正体かも知れない。

2010年9月29日水曜日

精神分析 その1.私は「精神分析関係の人間」である

クルム伊達。快挙だね。40歳といったら、人はあらゆる意味で体力に自信を失い始める時期ではないだろうか?
私は経歴からは、精神分析関係の世界に属している人間として扱われることが多い。私自身はあまりピンと来ないが、実際にアメリカでトレーニングを受けたり、日本で分析学会に属していたりすると、そう思われても仕方がない。というより私はやはり分析関係の人間なのだ。そうでなければ、私は日本精神分析学会で会計係(かなり不適任)をおおせつかったりはしないだろう。ただ私が精神分析に対して持っている関係は、案外複雑である。どこかで精神分析と戦っているというところがあるのだ。
私にとって精神分析学は、「天文学」のようなものである。学問の進歩に従い、新しい知見を取り入れて発展させたい。でもこの「天文学」、実際の天文学と違って、あつかう宇宙はきわめて混沌としている。それは常に姿を変え、しかも見晴らしが極めて悪い。100年前にフロイトという学者により始まったこの「天文学」は、「地球は静止していて、天体が回っている」と説いた。そこから出発はしたが、その後さまざまな人がいろいろな説を立ててきた。結局は現在の段階でも「たぶん天体も回っている・・・・カモ」くらいまでしかわかっていない。なぜならすでに書いたように、この心という宇宙はやたらと複雑なのだ。
その結果として精神分析の世界では、あくまでフロイトが立てた「天文学」を本来の姿とする人から、頑強に地動説を支持する人まで、たくさんの人が集まっているのだ。そしてそれぞれがお互いの立場を尊重すればいいのだが、フロイトの天動説に従うべきだという意見が結構強かったりしている。この意見が依然として力が強いのは、彼の言った地動説は、なんといってもフロイトというカリスマ「天文学」者が言ったことであり、その主張が明らかに間違いであるということも証明できないからである・・・・・。
私のように「地球が動くこともあるだろうし、天体が動くこともあるだろう」という立場は、この「天文学会」ではあまり人気がない。はっきりしないし、一見何を言っているかわからないのだろう。でも私自身はおおむね満足している。心の宇宙は混沌としていて観察不能、というのがおそらく一番現実の姿に近いからだ。
こんなたとえ話をしても、読む側にすればあまり意味をなさないかもしれないが。

2010年9月28日火曜日

二者関係 その1. 人と関わるということ

 あれほど日本の政府関係者が「絶対謝らないぞ!」と言ったのだから、中国側からさぞかし反応があるのかと思いきや、そうでもないのだろうか?少なくとも私がチェックしているインターネット上のニュースには出てこない。その代わりに見つけた読売新聞(インターネット版)の記事。こんな風に言ってもらったとき「人に理解してもらえた」って感じるんだろうね。以下はその抜粋。
【ワシントン=小川聡】尖閣諸島沖の日本領海内で起きた中国漁船衝突事件をめぐり、日本政府による中国人船長釈放にもかかわらず強硬な主張をやめない中国に対し、米メディアで批判が広がっている。27日付のワシントン・ポスト紙は、「ますます威嚇的な中国に直面するアジア」と題する社説を掲載。事件について、「中国が国家主義的で領土に不満を抱えた独裁国家のままであることを世界に思い出させた」としたうえで、「中国は船長釈放後もさらに(日本に)謝罪を求めている。こうした振る舞いは、国際的なシステムに溶け込もうという気のある、節度ある国のものではない」と批判した。 ニューヨーク・タイムズ紙も同日付の記事で、米政府当局者が「日本は事態が手に負えなくなることを防ぐために重要なことを行った」が、「中国がこれ以上、何を欲しがっているのか、我々にはわからない」と、中国に不信感を示す様子を紹介した。

ところで二者関係というテーマでまだ改めて書いていなかったことに気がついた。ネット社会が人々の行動様式を変えてきていることは確かなのだろうが、非常に印象深いことがある。それは本当の意味での引きこもり状態というのは少ないということだ。私はネット社会が引きこもりを生んだとはまだ思ってはいないが、引きこもりが遷延する理由のひとつにはなっていると考えている。あるいは引きこもりの人たちの人生に何らかの意味を与えることに貢献している、というべきだろうか?

彼らは人とのかかわりを求めているのである。引きこもっていてもブログは持っている、という人も多い。RPGを通じてネット上の友達を持つ人もいる。直接対面するという形をとるか取らないかは別として、何らかの形で人とかかわりを持ちたい、という願望を持たない人のほうが少数派だろう。うつ状態が深刻になり、話す元気がなくなっても、それでも人は気心の知れた人と話したいという願望を残しているものだ。

二年前の秋葉原事件の犯人加藤智弘は、ネットこそが人生のすべてであるような言い方をしていたように記憶している。自分が何かを発信して、何かの反応を得たい。人嫌いでかかわりを持とうとしないひとでさえ、じぶんのメッセージを誰も聞いてくれないから、という理由でそうなっている可能性が大いにある。自分のメッセージに的確に反応をしてくれる人の存在なら、むしろありがたいのである。

精神療法の基本的な意義を考える際も、そのそのレベルにまで降りる必要があると思う。精神療法の世界では、「何が有効なのか what works?」という疑問に対する答えは依然として出ていない。最近はやりの観のある、関係理論relational theory などは、他人の関係、としか言いようがない、すなわち答えは見出せない、ということに関して開き直った答えを提示しているようだ。

この問題について、いかに精神療法の世界は遅れているか、と考えているよりも、いかにこの問題が複雑なのかを示していると考えるべきだ。人類は非常に具体的でデジタルな思考や解答が見出せることについては、すばらしい成果を遂げている。宇宙がどのようにできたのか、物質は何により構成されているか、などの問題についてこれまで想像もできなかったような詳細がわかりつつある。でも「精神療法はどうして有効なのか?(あるいは、本当に有効なのか?)」に結論が出ないということは、この分野がいまだに未開であり、無限の可能性を占めているということを意味する。この点が不可知論とも結びつくことはご理解いただけるだろう。不可知論が面白いのは、その可能性もまた無限だからだ。

2010年9月27日月曜日

愛他性 その1. 二者関係と二国問題とは違う    もうこれでよしにしよう・・・・

中国問題が依然として気になる。鳩山さんは「自分だったら中国側と、腹を割って話せたはずだ。」といったそうだが、ピントがかなりずれている。菅さんは、早速鳩山さんを特命大使として中国に派遣するべきだと思う。そして恩首相と会談してもらう。(断られなければ、であるが。)ただし忠告を忘れてはならない。「『トラストミー』などといいながら、おかしな約束をしてこないように!!」

中国政府の報道を耳にするたびに腹を立てている自分に気づく。国は人とは違う。それなのにどうしてここまで中国政府の姿勢に、あたかも人に対してと同じように感情的になってしまうのだろう。中国政府はまさにストラテジーとして様々なメッセージを送り続けるはずである。それに感情的になるのは中国政府の思うつぼということになる。中国の日本に対するメッセージが内政問題の反映である以上、この怒りは本当は持つ必要のないものなのである。ところがどうしてこんなに腹がたつのだろう・・・最近結構こんなことを考えている。でもいい加減に終わりにしたい。

数日前のこのブログで、私は二国間と二者間ではそのメカニズムに大きな差があるという趣旨のことを書いた。親しい間柄でなら、人と人との間には信頼が生まれ、愛他的な関係を持つことができる。人は確かに自分以外の存在を大切にし、その幸せを願うことができる場合があるのだ。これは喜ばしいことだ。人は完全に利己的にしか生きないとしたら、あまりに夢がないではないか。
でもこの愛他性は、国と国の間では成立しないと考えるべきだ。首相同士が信頼関係に結ばれるとしても無理な相談である。原因は人が愛他性を発揮できる範囲は非常に狭いからだ。愛他性を発揮するためには、相手の心のあり方を生き生きと想像する力を働かせる必要があるが、これは決して容易なことではない。目の前で苦しみでのた打ち回る人を見れば、それがアカの他人であっても苦しみは伝わってくるし、何とかしたいと思うだろう。何しろ目の前で起きることなのだから、あまり想像力は必要としない。知覚として飛び込んでくる。しかし地球の裏側にいる、食糧危機で瀕死の子供の事を聞いても、ピンとこない。彼らのために一日一ドルの寄付すらできないのだ。これは別に私たちが冷酷無情だからというわけではない。人間はそういうものなのだ。
もし一時間ほど懇々とその子供たちの悲惨な状況を説明してもらう機会があれば、そしてそれを聞くだけの忍耐力があるなら、そのうち想像力が働き、その悲惨さが伝わってきて、ついには助けの手を差し伸べたくなるかもしれない。しかしそのような機会は普通は与えられない。
そこで改めて問うてみる。A国の国民が、B国の国民に対してどこまで親身になれるのか。どこまで共感できるのか? ほとんど不可能というしかない。「国」そのものが痛みを持つのではない。苦しむのはその具体的な民衆である。「国」にいかに人格を思い入れても、その国民の顔しか浮かんでこないだろう。国と国とが理解し合い、友好関係を結ぶとしたら、それはA国民の大多数がB国民の大多数の体験に同一化し、その幸せを願うということになるが、そんなことなどあり得るだろうか? A国民の一人ひとりが、B国の特定の国民をそれぞれ思いやる、ということなど起き得ない。ただしなぜか憎しみあうことに関しては、二国間で容易に起きてしまう。それで人類は数限りない戦争を起こしてきたのである。
しかしA国民とB国民が判り合えないからと言って、悲観しないことだろう。人間はそういうものなのだと受け入れるしかない。
ところで私は思うのだが、よその国に馬鹿にされて黙っていることほど、難しいことはないとつくづく感じる。岡田さんや前原さんのように断固とした態度を取る政治家は、こういう時は受けがいい。特に中国により見下され、挑発される今回のような場合はなおさらだ。私も石原都知事が中国政府の態度に関して品のない言葉を吐くたびに、胸のすく思いを持っている。
でも我が国を太平洋戦争に突入させた原因の一つはまさにそれなのである。堂々と権利を主張し、正義を貫くという姿勢が実を結ばないことはいくらでもあるだろう。その時は相手の力に屈し、戦争を回避しなくてはならない。その為の勇気というのも私たちは必要としているのだろう。

2010年9月26日日曜日

治療論 その4.  バイザーからのメッセージは簡単には般化されない

カタい話で申しわけない。バイジーや治療者の機能、ということで最近思っていることを書いてみる。しかしこれは教育にも養育にも関係した話である。
バイザーや親のメッセージの多くは、残念ながら般化される運命にはない。バイザーは口を酸っぱくしてバイジーを指導し、正しく教え導いているつもりになっている一方では、この点が多くの場合に十分理解されない傾向にある。
ここであるバイザーとバイジーの関係を考えよう。時間に厳しいバイザーである。ほんの1、2分だけ遅れでスーパービジョンに現れたバイジーに、「セッションにはどんなことがあっても決して遅れてはなりませんよ。」と叱りつける。そして「遅れる、ということは相手を軽視していることにつながりますからね。」「私の教育分析家は、5年間、ただの一度たりとも時間に遅れることはありませんでしたよ。」「いつも先に治療者が来ている、ということが安全な治療構造を成立させる上での基本ですからね。」と言葉を継ぎ、それが治療的な環境においていかに大切かを解くだろう。
こうしてバイザーはバイジーに時間を守ることの大切さを教え込んだ・・・・はずである。ところがバイジーに時間を守る大切さはまだ伝わらない。「どうしてほんの少し時間に遅れたことをそこまで咎められなくてはならないのだろう?時間を守るよりもっと大切な事だってあるだろう。」 しかし彼はバイザーの手前、その教えが伝わったことにするだろう。でも「このバイザーにとっては、時間厳守は極めて重要であり、バイジーである以上自分もそのつもりにならなくてはならない」ということしか学んでいないのである。つまりこのバイジーとどのように付き合っていくか、しか学んでいないのである。
このバイジーが時間厳守を肝に銘じる様になるためには、おそらくその他の多くの指導者やバイザーや、患者との体験を経る必要があろう。それらの人々からも繰り返し同じメッセージを受け取ることでバイジーは最終的にそのメッセージを般化させ、自分のものとして取り入れることにするかも知れない。しかし他のバイジーからは全く別のメッセージを受けることで、時間厳守よりもっと大切な事を学ぶバイジーもいるだろう。「時間なんかあまり気にしなくてもいいんだ」という逆の教えを受ける可能性もありうるのだ。
ここで大切なのは、時間厳守を教え込んだつもりの最初のバイザーは、実は極めて大きな心的ストレスを及ぼしていることを知るべきだろう。バイジーは真理を伝えられて正しく導かれる代わりに、自分なりの真理の追究を続けるだろう。しかし表向きはバイザーからそれを学んで身につけたものとして振舞うのである。一種のfalse self の形成ということになる。そのような場合はそのバイザーを離れたら、バイジーはその学んだはずのこととは別のことをおこなう可能性が高い。多くのバイジーが、実際の治療ではバイザーに言われたことと逆のことを行うと言われる。
同様のことは、親に叱られて様々なことを学んでいく子供についても言える。親は子供を教え導き、正しい行動を教え込んでいるつもりである。ところが多くの場合、子供にとっての教訓は、「~すべきである」ではなく、「この親の目の前では、~すべきである」でしかない。そしてそれを続けることを強要されることは、子供にとってほとんど外傷的な意味を持つことすらある。

2010年9月25日土曜日

日本人とは その1 

すがすがしい一日、というより午後。今日は御茶ノ水で一日を過ごす。御茶ノ水駅はどうやら懸案のエレベーター工事に取り掛かるらしい。それはそうだろう。目の前に医科歯科と順天が聳え立っているのに、車椅子の人が乗降出来ないなんておかしな話だ。私の中学時代から現在まで、唯一ぜんぜん姿を変えていない御茶ノ水駅も、ほんのちょっと進歩するというわけだ。

中国のことを考えている。昨日の報道では、中国側は日本に「謝罪と賠償」を求めているそうだ。わが耳を疑うようである。他方わが国では拘留期限を待たずに船長を帰国させたことの是非について議論が起きている。今回このブログを書きながらいくつか学んだ気がする。

1.不可知論は、おそらく二国間においても成り立つということ。おそらく日本が中国に対してとるべき措置に、一つの正解はない。正解がない、というのが国の間にも成立していたことに今回まで気がつかなかった。win-win に基づく互恵関係は国の間では成り立たず、むしろ弱肉強食の原則の方がよっぽど当てはまる。船長を帰国させたことが、とんでもない弱腰、日本外交の敗北という野党の意見も、最善の措置であったという民主党の誰かも、どちらの意見が正しいかは、今後の自体の推移しだい、ということになる。第一「船長を帰国させるという日本の処置は正しかった」というアメリカ側のコメントだけでも、もはやどこにも正義を訴えるところはない(つまり結局は正義は存在しない)ことは明らかなのだ。
2.中国の反応は、少なくとも私の予想を超えた大胆さであり、日本人の発想の域をはるかに超えている。「謝罪と賠償」を求めてくるだろう、などと私はぜんぜん予想していなかったのだ。でもこれも弱肉強食の立場に立てば、彼らの発想がわれわれのはるか上を行く、ということなのだ。

3. おそらく日本が今後行わなくてはならないことは、自分たちの立場をメディアを通して発信し続けることだろう。これが日本人がこれまでやらなかったこと、そしてこれからやらなくてはならないことだ。それこそ中国語でも英語でもやればいい。「粛々と処理をする」は、世界にはまったく通用しない。それを言うなら、「粛々と、自分たちの立場を発信し続ける」べきなのだ。そしてこれを日本は決してやってはいない。個人レベルでは、「粛々と処理する」はまだ通用する可能性がある。誰かがじっと見ていてくれて、最後の裁定を下してくれるかもしれない。しかし国家間では、そんな存在はいないのである。

ところでやっと今日のテーマ。
私は今、この日本の弱腰でお人よしの外交の仕方、あるいは外交手腕の欠如、といったことと日本人のメンタリティーは非常に深い関係にあるということを感じている。そして私の好きな日本人の性質は、おそらく中国にいいようにやられっぱなしの姿勢と共通していることなのである。財布を拾ったら交番に届けることを疑わないこと、また自分が財布を落としたら、届けられているであろうことを期待するところ、そしてそれが国内では成立しているということが、日本人をますます外交音痴にしている。
でもこんなおかしな国が世界で一つくらいあってもいいのでは、という気がする。先進国で唯一の核を持たない国、というのはこのように恫喝されても仕方がないという運命を担っているということを受容する必要があるだろう。
日本は稀有な、やられっぱなしでもおとなしくしている国である。そこにはおそらく彼らにしかわからない美学がある。それでいいのかもしれない。弱小国でも文化と技術があればいいのかもしれない。大国中国には向かわなければ、希土類は輸入させてくれるだろうし。

2010年9月24日金曜日

治療論 その3. 治療と言っても自分に行動療法

おめでとう、10年連続200本安打。もう今年はこれでいいよ。巨人はもうこれからは無視。最初に期待させて後半の失速はひどい。ホームランばかりに頼るからだろう。本当の実力とは違う・・・などとグチを言いたくなるが、原監督もつらいだろうな。
自分に行動療法を施したら結構うまくいったということがある。というより行動療法はみな自分や家族に対しては常に試みてはおおかた失敗、ということを続けている。しつけもかなり行き当たりばったりではあるが、子供に同様の試みをしていることになる。そもそも行動療法は、その人が「はまる」ものでなければ、長続きしない。いくら行動療法の効果にエビデンスがあるといわれても、「一週間の行動の日記をつけるなって考えられない」という人はそもそも行動療法家のもとを訪れないだろう。だから行動療法とは、自分で自分に行うことが本当は一番いい、ということになる。行動療法化は、そのコーチ役ということか。
最近の自分自身の例から。私の場合、どうしても書くモティベーションがわかない依頼原稿というのが一番つらい。するとつい先送りをしてしまう。私にとって精神衛生上よくないのは、この先送りから来る漠然とした不安である。「モティベーションがわかない仕事が結構進んでいる」というのは安心感を生む。しかしその仕事はやりたくない。これはジレンマである。そこで・・・・・
ワードの文書に、仕事のリストを作る。一番先送りにしたいことを上にして、やりたくない順番に並べる。そして見出しマップを活用して、左の欄にそのリストが見えるようにしておく。多くの人がこれを使っているかと思う。
  
私の行動療法は、そのリストに従って、仕事をこなしていく。ただしどんなに少なくてもいい、ということにする。
すると仕事Aなら一ページくらいは一気に進む。(その仕事Aとは、例えばこのブログだったりする。)見出しマップで次に出てくるのは仕事B。一番書きたくない依頼論文だ。そこでそれこそ見キーワードを3つくらい思いついて、それで飽きてしまう。それでおしまい。それでいいことにする。(まったく何もしない、というのはナシ、ということに決めておく。)次の仕事Cは翻訳なので、嫌いではないのでちょっと進む。仕事Dは、机の周りの入らない書類をひとつかみゴミ箱に入れる。仕事Eはメールの返事書き、という風に。それぞれはわずかでも、仕事AからEまでとりあえずやった、という爽快感がある。次はまた仕事Aに戻る。鬼門は仕事Bだが、先ほどのキーワードを出したおかげですこしは進む・・・・・。
他愛のない方法だが、私としてはこの方法なしには何も出来ないような状態である。
ただ私がこんなことを書いても、じゃやってみよう、と試す人はごくわずか、それでうまく行ったという人はさらにわずかである。ここら辺が行動療法の難しさか。繰り返すが、行動療法とは、個人がやり方を見つけるのをアシストすること、という風にいえるかもしれない。