2026年3月26日木曜日

「バウンダリー」推考 5

   上の二つの例は何を示しているのか? 一つは終了時間についての例、もう一つは自己開示の例であった。両方ともある種の境界がそこに引かれていることで、それを原則的には守ろうとする二人の間のダイナミズム、やり取りが生じている。しかしそれは境界を厳密に守る事に徹することによって、ではない。境界を意識化し、それを念頭に置くことによって、である。治療者は患者からチャレンジを受け、境界を押したり引いたりする力を加えられ、それに対してある程度の柔軟性を発揮して対処する。それが柔構造的なやり方だ。そしてここが大事なのだが、その駆け引きを通して、実はその境界はもっとしっかりとした、やわらくて同時に強靭なものになって行くのだ。そうして境界のマネージメントを通して、治療者は患者に対して自分の生きた、安全な存在を明らかにしていくのである。  治療者と患者のやり取りを、押し相撲にたとえよう。そして患者の方が治療時間の延長を望んだり、治療者の自己開示を迫るという形で治療者を押してくる。治療者の皮膚は柔らかく弾力がある。患者がちょっと治療者のお腹のあたりを突っついても、その皮膚はその指を跳ね返してくる。その時治療者は多少困惑の顔色を浮かべ、「どうしたの?」と少し不思議そうな顔をするだろう。そこで患者はもっと強く押してみる。すると治療者の体は多少揺らぐが、押された力に応じて踏ん張るので、倒れることがなく安定を保つことができる。しかし治療者は先ほどよりはもさらに困惑の色を浮かべ「そんなに押さないでくださいね。どうかしましたか?」と尋ねてくるだろう。  このように治療者はその力に応じて反応をし、患者の側はどこら辺が引き際かを知る。ただその際の治療者の反応は依然として穏やかで、患者からのチャレンジに挑発されて仕返しをしてくるわけでもなく、心穏やかでかつ毅然とした態度を内に秘め、自己防衛のできる人間としてそこに存在し続ける。そこで患者が感じるのは、自分の体をしっかり保ち、かつこちらの働きかけに応じた反応を示す人間としての治療者であり、その動きを徐々に取り入れ、内在化させていることが望まれるのだ。  このように描かれた治療者の態度は柔構造的、と言えるが、もしそうでなく、境界へのチャレンジを常に治療抵抗として扱うという方針を持つ治療者ならどうだろう? それは剛構造的な治療態度という事になるが、患者は少し時間が遅れたり、治療者のプライバシーに少し踏み入ったような質問をした時には、患者はすぐに指摘されたり、ピシャッと跳ね返されたり、あるいは何事もなかったかのように無視されたりするだろう。「私の来週のキャンセルの理由をどうしてお尋ねになるのですか?」という質問はそれ自身はニュートラルであったとしても、患者は咎められている感じがするだろう。あるいは治療時間を過ぎても話が終わらないと、剛構造的な治療者は「はい時間ですね!」と強制終了させられることになる。患者には治療者は血の通っていないロボットのように感じられるかもしれない。  ここで示したような剛構造的な治療者は現実にはあまり存在しないかもしれない。治療者もそれなりに普通の人生経験を積んできているはずだからだ。しかし多少なりともロボット的な印象を感じさせるとしたら、その治療者は治療構造を何が何でも厳密に守るべし、という誤った教えをかたくなに患者にも自分にも押し付けてくる人という事になる。  なぜそのような治療者が存在するかを考えてみる。一つは、治療者の多くが「左脳人間」であり、境界を少しでも踏み越えることが著しい不快感や違和感、ないしは不安を喚起するという可能性である。ただそのような人が精神分析を志す可能性はあまり高くないだろう。そしてもう一つは治療構造を誤って理解しているために、良かれと思いその遵守を目指し、それを揺るがせる行動については抵抗とみなすという可能性である。これはかなり経験を積んだ精神分析家にもみられる可能性がある。いずれにせよ患者の側は治療者を血の通った人間として認識することが出来ないであろう。