2025年8月4日月曜日

FNDの世界 8

 さらに以下のような長い記載が続くが、どこまで新しい原稿に使えるのかわからない。とにかく10年前の私はずいぶん真面目に書いたものだ。

ガレノスの説がこれほど長く続いたということは、それが当時抱かれた「ヒステリー」というイメージの本質に迫った説明の仕方であったことを示唆している。その一つの特徴は、それが事実上子宮を有する女性にのみ限定される病気であるとみなされたことである。そしてそれは従来社会でまた女性が直面していたタブーとも関係していた可能性があるのだ。一般的に文明が未発達であからさまなタブーが存在する社会においては、解離性の症状が一種の社会現象の形を取りやすい。文明の恩恵をまだ十分に受けていない文化において、さまざまな形での文化結合症候群が見出されてきたことは周知の通りである。そして女性の性愛性について語ることは、おそらく長年社会における最も大きなタブーのひとつであった可能性がある。ヒステリーを女性の性愛生の抑圧と結びつける傾向もそれらの事実と関連があるものと思われる。

このヒステリーに関する理論の中で特に興味深いのが、男性との性交がその症状を軽減する、という考え方である。再び好著「オーガスムのテクノロジー」の記載から17世紀の医学者による同様の記載も引用しよう。「妻たちは処女や寡婦たちより健康状態がいい。なぜなら彼女たちは男性の種と自らの分泌物によりリフレッシュされる。それにより病気の原因が取り去られるのだ。それはヒポクラテスの言葉のとおりである。」(Nicolaas Fonteyn, 1652)(Maines, 1998, p29)
今の時代からはとても考えられないことではあるが、当時はそれがまことしやかに考えられていたのだ。そして私はそこには男性の側のファンタジーが明白な形で介在している可能性があると考える。つまり「女性は常に男性との性的なかかわりを望んでいる」という男性の側の願望ないしは論理が、結果的にヒステリーに関するこのような間違った観念を存続させていたとも考えられるのではないか?
ちなみにこれから検討するフロイトの理論がしばしばさらされていた批判、すなわちあまりに性欲説に傾いているという批判も、実はヒステリーに関して長く信じられていた理論を考えればある程度納得できるものではないかと思われる。たとえばフロイトが治療した症例ドラ(Freud, 1905)は、後にフロイトの不十分な治療的かかわりについて批判される際にしばしば用いられるケースとなった。特にフロイトがドラに関して下した判断、すなわち彼女が実はMr.Kに対して向けていた性的な願望を抑圧していたためにそれがヒステリー症状に表れていたという下りは不興を買っている。しかしこのような考えは、実はヒステリーに関して十数世紀にわたって信じられてきたことを図らずも踏襲した理論に過ぎなかったともいえるのである。つまりはフロイトだけがとんでもなく極端というわけでもなかったのだ。
さて話の順番としてはここからシャルコーの話になるわけだが、シャルコーについて振り返っておくことは、それに引き続いて起きたジャネとフロイトの因縁の対立を理解する上で必要となる。ある意味ではジャネとフロイトという二人の人間のすれ違いが、そのまま精神分析と解離理論とのすれ違いの原因となったとも考えられるのだ。またそれが心理学にそれだけの幅と深みを与えた、と考えることもできるかもしれない。そこでこれを探ってみたいと思う。

ヒステリーの外傷説の火付け役だったシャルコー

ヒステリーに対する上記のような偏見を取り去り、それを医学の土俵に持ち込んだのが、シャルコーだったことについては異論の余地はない。彼自身もある時点で解離や人格の交代という現象に出会い、それに魅せられたという、いわば「原体験」を有していたわけであるが、彼はそれをパリのサルペトリエール病院で体験した。サルペトリエール病院は、巨大な精神病院であり、現在でもサンタンヌ病院とともにパリに存在するが、当時のサルペトリエール病院は何千人単位の膨大な数の女性患者を収容していたという。
シャルコーは1962年にサルペトリエールの医長に任命され、そこでの希少な患者について観察し、華々しい研究成果を上げた。シャルコー・マリー・トゥース病とか、ALS(筋萎縮性側索硬化症、別名シャルコー病)などの病気を発見し、多発性硬化症を最初に記載し、また関節の疾患の一種、いわゆる「シャルコー関節」についても知られている。シャルコーはすでに神経疾患を発見し、かなりの名声を得ていた後で、この病院でヒステリーの問題に取り組んだことになる。
シャルコーのヒステリーに対する関心については、1870年にサルペトリエールの「女性痙攣病棟」つまり痙攣(convulsion)を主訴とする女性患者が集められた病棟も担当したことが大きな転機となった。この痙攣病棟とは、要するに痙攣発作を症状とする患者の入院施設だったが、このころはその痙攣発作が脳波異常を伴ったてんかんによるものか、ヒステリー性(すなわち解離性)のものかを区別する手立てはなかった。当時は脳波計などという便利なものはなかったからである。ということはシャルコーが記載したヒステリーは、実はかなりの部分がてんかんの患者についてのものだったということも考えられることになるだろう。
シャルコーの全盛時代は、サルペトリエール病院で火曜レクチャーというものを開き、そこにはヨーロッパじゅうから有名な精神科医や芸術家や文化人が出席したといわれている。そしてそこではヒステリーの患者が多く供覧されて、シャルコーが催眠をかけると実際に様々なヒステリー症状を起こしたという。シャルコーの講義にしばしば登場した女性たちの中でブランシュ・ウイットマン Blanche Wittman という患者はヒステリーの女王 la reine des hysteriquesと呼ばれていた。彼女は火曜講義などで嬉々として三つの段階のヒステリー症状をデモンストレーションしていた。聴衆はその見事さに魅了され、シャルコーの名前はますます高まったのであった。
シャルコーはさまざまな症状の現れ方をするヒステリーを説明する手段として、ヒステリーの大発作という概念を提出した。そしてこの大発作が四つの段階(「類てんかん期」「大運動発作期」「熱情的態度期」「譫妄期」)を示すと考え、それを詳細に記載したのである。こうすることでヒステリーのさまざまな症状は、この大発作の部分的な現われや亜系であると説明することが出来たのである。しかしここでシャルコーが試みたのは、むしろ理論に患者を合わせるということであった。先程も述べた事情から、サルペトリエールの痙攣病棟には真性のてんかん患者も入ったわけであるから、シャルコーはヒステリーの患者の中に当然ながらてんかん患者を混入させていた可能性が高い(Webster, 1996)。さらにはヒステリーの患者はてんかん発作を有するほかの患者を真似ることが出来たことも想像に難くない。すなわちシャルコーがヒステリーと呼んだ患者の中には、解離性障害の人とてんかん発作を有する人、そしててんかん発作をまねた形で解離性の症状を示している人が混じっていたことになる。それを全部まとめてヒステリーとし、その病型を分類することにどのような意味があったかは推して知るべし、だろう。
さらに問題だったのは、臨床講義に供覧される患者たちの多くは、どうやら病棟でいろいろ指導や打ち合わせをしたりしながらヒステリー症状を演じていたということがわかったことである(Ellenberger, 1979)。シャルコーは病棟の回診などにはあまり興味がなく、弟子たちが用意した患者をオフィスや講義で診ていただけであったという。だから弟子たちと患者があらかじめ打ち合わせをしていたことは知らなかったということになるが、真相はわからない。しかしやはりそこにはシャルコーの性格的な特徴が関係しているといえるであろう。彼は非常に自己愛的で自己顕示性が強く、また名誉欲も旺盛であったわけである。一世を風靡し、大きな名声を得る人の多くは、物事を劇化し、多少なりとも脚色してそれをリアリティとして表現する傾向にある。あとからそれを検証するとそこに虚偽や脚色が混じっていたりする。シャルコーの場合もそれに当てはまっていたといえるだろう。
その後シャルコーが旅行中に突然亡くなった後は、彼のヒステリーの理論が、残された弟子たちによっては省みられなくなったことはある程度やむをえなかったといえるかもしれない。彼が提示していたヒステリーの患者たちがあらかじめ打ち合わせをしていたことを知っていたのは、当のシャルコーの弟子たちだったからである。それまでシャルコーに忠実だったババンスキーも(いわゆる「バビンスキー反射」で有名なフランスの神経学者である)、師の神経学的な業績のみ受け継ぎ、催眠については暗示によるものであり、一種の詐病と一緒だ、という論文を書くようになったということである。
そしてシャルコーによる「催眠は身体的な現象である」、という理解も顧みられなくなり、ライバルであったナンシー学派(催眠を暗示により正常人でも生じる現象として捉えた)の考え方が取り入れられ、それにより催眠は心理の分野の現象として扱われるようになった。そして同時にヒステリーは正式な医学の研究対象としては脱価値化されるようになったのだ。
現在の観点からシャルコーのヒステリーに関する臨床研究を振り返った場合、そこにあったひとつの過ちは、シャルコーがヒステリーを自分の専門の神経学に属する疾患として整理し理解しようとしたことである。この方針をとることで、シャルコーは大いに道を誤ることになった。というのもたとえば彼の発見したALS(筋萎縮性側索硬化症)には定型的な症状があり、それに相当する神経系統の病理学的な異常が認められており、客観的に示すべき所見を伴っていたわけである。それは彼が発見したもう一つの病気であるシャルコー・マリー・トゥース病についても同様であった。
ところがヒステリーや解離性障害の場合、それはあまりにたくさんの表現形態をとり、どれか一つに絞ることは出来ない。極めてアモルファスでとらえどころのない病気といえるのだ。しかも解離症状は一種のブランクスクリーンのような性質を持ち、たとえば目の前の治療者が、「あなたは~という症状を示すはずである」と示唆した場合にはそれを実現してしまいかねないところがある。つまり患者はシャルコーが「これがヒステリーのあり方だ」と結論付けたものをそのまま示して見せたという可能性が高いわけだ。それがヒステリーの有する被暗示性の表れであり、この疾患の本質であるということにシャルコーは気がつかなかったのである。

このような批判はあっても、シャルコーがヒステリーの研究に非常に大きな貢献をしたことも確かである。例えばシャルコーはヒステリーは女性特有のものではなく、男性についても起きることを、実際に男性の患者を供覧することにより示した。またシャルコーは、ヒステリーが心的外傷一般、すなわちたとえば思春期以前の性的外傷によっても、そのほかの外傷(鉄道事故とか、はしごからの転落事故など)に対する情緒的な反応によっても起きることを主張したとされる。そしてこのヒステリーの外傷説が、フロイトの理論形成に大きな影響を与えたのである。ただしそれでもシャルコーはある意味ではヒステリーに関する俗説をそのまま引き継いでいるというところも否めなかった。そしてこれもフロイトが引き継いだ部分でもあった。
フロイトは1886年にシャルコーの家のレセプションに招かれて、シャルコーがヒステリーの患者について話しているのを聞いたという。深刻な病状の若い女性について、シャルコーは「そういうのは常に、性器的な問題なのだ、いつも、いつもそうなんだ。」Dans ces cas pareil, c’est toujour la chose génitale, toujours, toujours. これにまねて、ウィーンの有名な産婦人科医が、ある不安発作の女性の患者を、夫のインポテンスのせいだといい、唯一の処方箋は「正常なペニス、反復的な使用Penis Normalis dosum repetatur」、といったというエピソードがあるという(Gay, 1998, P92.)。
繰り返すがシャルコーもある意味ではヒステリーと女性の性的欲求を結び付ける俗説を引きずっていた。しかしシャルコーの慧眼は、彼のヒステリーへの理解がここで終わらなかったところにあった。結局はこのヒステリーと、男性の鉄道脊椎が同じ性質のものだということも理解していたからである。