ここでほんの少し私の持論が入ることになる。というよりか、当たり前のことに私が気が付いたというだけなのだろうが。実は小さなPEは大事であり、生命体に必須なのだ。それが起きない限り人間は体験を持つことすらできない。あるいはその体験は全く面白くないのだ。 例えば卓球でラリーをするとしよう。相手からの球が自分が予想した通りのコースや強さで返ってくるとしよう。何なら精密な卓球マシーンを相手にしている場合を考えるといいだろう。するとプロにとってはこれほどつまらないものはないということになる。退屈以上の何物でもない。だから同じくらいの力の相手だと、思いがけない方向に球が返ってきたりしてわずかのPEを体験し続けることになり、とてもそのラリーを面白く感じるに違いない。 ところが卓球の初心者なら、卓球マシーンにより全く同じコースに球が返されたとしても、こちらの体の反応がバラバラだから、全く同じ体験にはならない。その日の体調によっては、昨日は簡単に返せた球にも全く反応できない場合も起きるだろう。あるいは毎回全く同じコースに同じ強さの球が返ってきているということさえ気が付かないかもしれない。 とにかく向こうからくる球が少しずつ違った新しいものとして体験され、そこには必ずPEが毎回存在するからこそゲームとして面白い。そしてそれを少しずつ練習により最小化していくことで卓球は上達するだろう。 ここでいつも私が考えていることを述べるならば、慣れ親しんだ体験と若干の新奇性の組み合わせが人に興奮や快感を起こさせるのである。そのような体験が人を夢中にさせ、何らかの知識や技能が一気に進んでいく。100パーセント新奇な面ばかりだと体験が成立しない。全く聞いたことのない外国語を一時間聞いても、何も残らないだろう。少しだけ知っている単語があるような外国語だと、少し印象に残り、多少は面白さを感じるだろう。もし母国語だと単語の意味はすべて分かり、ただ内容だけが新奇ということになり、それなりに面白いはずだ。ところがそれを暗唱するくらいに何度も聞いた場合には面白みも感じないはずだ。(ただし同じ話を何度も聞いても毎回違う想念が浮かび、新たな発見があるとしたら、その人は同じルーチンの中に喜びを見出すことが出来る。) さてここまで書くと、遊びの楽しさのことが思い浮かぶ。RTPは相手が何を繰り出してくるかが、そして自分がそれにどのような反応をするかが未知であり、毎回適度なPEが生じるからこそ面白い。というかRTPとはそのようにして自分や相手を刺激し続ける類の活動なのだろう。そしてそれを通してお互いの成長がある。その遠い目標はPEMであり、世界が、相手が、自分が分かってしまう境地であろう。すると自分と相手は完全に同期してしまい、それ以上の相互作用の余地がなくなってしまう。完全な同期化は、だから一種の関係性の死を意味するのかもしれない。ということはRTPにも、治療にも予測不能性がなくてはならない。それが playfulness というわけだ。治療が playful であるということは、適度のPEを産生することなのである。