遊びについての考察があまり進んでないのに、もう推敲だ。まずタイトルは「遊戯療法と精神療法- その懸け橋としての愛着理論」とした。私は遊戯療法の専門家ではないが、精神療法は常にプレイセラピーの要素を持つことが望ましいというのが持論である。簡単に言うと、「playfulness (遊びごころ)はすべての精神療法において必須である」ということが出来る。およそあらゆるタイプの精神療法においてこの playfulness が欠如している場合には、その効果が半減してしまう。 もちろんだからと言って治療はすべて「おふざけ」でやっていいのだ、ということにはならない。私が言っているのはウィットのセンス、自由さ、柔軟性、つまりは遊び心のことである。もっといいかえれば「十分にリラックスしている」ということである。そしてこう書いている際に常に頭にあるのが Winnicott の姿である。 もちろん成人と子供の治療ではこの playfulness 発揮のされ方はずいぶん違う。成人の治療がある種の心理教育や教示、情報伝達に限られる場合には、治療者は十分に柔軟である以上のものを特別に求められることはないであろう。しかしある種の転移状況が生じ、患者が様々な対象像を治療者に投影している状況では、治療者は時には権威として、超自我として、懲罰者として患者に映ることがある。その時に治療者はそこに 「as if 性」を注入するよう心掛けなくてはならないだろう。 例えば治療者が「それは〇〇ということですね。」と言い、クライエントがそれを厳しい宣告のように受け止めたとする。治療者には決してそのようなつもりがなければ、「~という印象を持っているということです。でも私の勘違いかも知れません」と付け加えることでクライエントは救われるであろう。「それは〇〇である」というのはある種の現実として存在するというわけではなく、治療者の主観に立ち現れたものであり、クライエントは異なる考えを持っていいのだ、と思えるようなニュアンスを与えることが大切である。つまり治療者はあたかもかつての厳しい父親のように自分の目に映ってはいるが、治療者もまた自分と同じように主観的な存在であり、「それは〇〇である」は誤りであるという可能性を自分自身も認めているのだ、とクライエントが知ることが大事なのだ。(逆に言えば、自分の言うことが絶対正しいと思っている治療者はその時点で「マジ」であり、「遊んでいない」ということになる。) さてタイトル(「遊戯療法と精神療法- その懸け橋としての愛着理論」)の説明をするつもりでもう脱線しているが、要するに「遊びごころ」はどこに由来するかと言えば、それは愛着のプロセスである、ということが言いたいのであるが、これだけでは伝わらないだろう。 要するに私が関心を持っているのは、いわゆる「じゃれ合い」という現象なのだ。愛着のプロセスには、この「じゃれ合い」の要素が必須であろう、というのが私の持論である(持論が多いな)。それはじゃれ合いの中に、相互性、平等性と言った対人関係上の基本要素が含まれるからだ。そしてじゃれ合いの中で自らの攻撃性が試され、それが恐ろしいものではないということ、そして他者の攻撃性も恐ろしいものではないということを学ぶことになる。もしこのプロセスが欠如したならば、自分の攻撃性が恐ろしく、それを自覚したり意識したりすることが出来ないのではないかと考えているのである。なぜなら自分の怒りが怖い、それが表現できないと訴える人はそれほど多いからである。そしておそらくそれは現代社会においてより顕著である可能性があるように思う。