POST(2023)について読んでいくと、「週1回」をめぐる議論と表裏一体という気がする。山崎氏による序章では、POSTの概念(というよりは用語)が生まれる背景が分かりやすく書かれている。まず分析らしさとしては、フロイトの1914年の言葉を引用する。「転移と抵抗を扱う実践はすべて精神分析を自称する権利がある」。これ自体は頼もしい言葉だ。週1回でもOKなのではないか、という気持ちを起こさせる。しかし週4回という高頻度だから治療者患者間の関係性を扱えるのであり、そこでは濃厚な「家庭」(藤山、2012)の雰囲気が濃い。それに比べて週一回では「関係性を扱うことが難しい(というより正確には、扱おうとしても無理をして扱う形になりがちである)、ひいては『精神分析的にするのが難しい』ということになります。」と書かれており、やはり同じロジックに出会う。そして山崎氏は本音を吐露する。「精神分析は、単なる治療ではない。治療以上のものである」という提言は何かかっこいい、という。実は私も正直その通りだと思う。精神分析の持つ「本物」感。そしてそれは常人(治療者も患者も)には容易に通過できないような関門を通ってこそ成し遂げられる。私も分析家になることを一つの目標として渡米した時はそう考えていた。 しかし、と山崎氏は言う。「それは患者が求めているものなのか?(それは必ずしも精神分析ではないだろう。)」ここら辺の理屈は至極真っ当である。 真っ当と言えば、15ページにある山崎氏の主張もそうだ。「『コントロールしようとすることはよくない』という精神分析的価値観とユーザーの適応やQOLを向上させようとする志向性を持つPOSTの実践がバッティングするのです。」(p15)要するに精神分析は患者に治療の方向性を任せるという形をとりつつ、結局は分析家の主導で事を進めるのではないか、ということだ。そうなんだよねえ。 p17に出てくる「精神分析主義」と「心理臨床主義」という対立概念も面白い(p17)。そして山崎氏は、自分は精神分析に肩入れをする一方では、精神分析を「絶滅危惧種」とも呼ぶ。これは「父親」に対するアンビバレンスそのものである。そして20ページ目でまたもや本音。「[テレビドラマの]俳優が歌舞伎のエッセンス日をごろの仕事に生かすことは不可能ではないはずです。」
これで思い出したのが、最近のすし職人の話。シャリを握るだけで何年もの修業が必要であるはずなのに、近頃は数週間ですし職人を育成するということが起きているらしい。そして店を出した寿司屋がそれなりに人気だったりする・・・。 おっと、この比喩は少し危険すぎるか。しかし精神分析の草創期にはかなり短期間のフロイトのかかわりだけで分析家になった人もいたのも確かである。 山崎氏の、「訓練分析を受けていないと転移・逆転移を扱うのが難しい」という考えについては、少し疑問を感じる。これもケースバイケースだからだ。「それを言ったら肝心のフロイトは分析を受けていたの?」となる。ただし私はすべての医療者は、自分が受ける立場を体験することはとてもいいと思う。出来れば体験入院くらいはしたいものだ。(昔の米国の精神科医はそうしていたといううわさを聞いた。) 山崎氏の精神分析の民主的ではない(権威主義的な)側面とPOSTの民主的な側面との違いというのも面白い。