2025年1月20日月曜日

統合論と「解離能」 9

  ここで発達論的な解離の理論に対する私の異議について明確に示しておきたい。それは人格の出現の多くは「創発的」であるということだ。それは多くの場合、予想を超えた形で生じるのだ。そしてそれはDBSのような発達論的な解離理論にはうかがえないのである。

 私の考える解離のプロトタイプをここで示そう。一般人にもまれならず体験されるパターンとは対外離脱である。例えば突然自分から飛びのいて後ろから見る形で出現する。後ろから自分が殴られたり、身体的な外傷を負ったりするのを客観的にみている、など。それが突然起きるのだ。そしてそれは決していくつかの自我状態の間を飛び移るという現象では説明できないだろう。たいていトラウマをきっかけとして解離を体験し始める人の場合には、この種の突然新たに、つまり「創発的に」人格が出来上がるのを経験しているのだ。

あるいは別の形をとる場合もある。極めて絶望で進退窮まった状況で、突然自分の中から声が聞こえ出す。「死んじゃだめだ!」などの励ましの声だったりする。勿論「どうした、そこまでか!」などと叱咤激励する場合もあろうが。そしてその声の主は第三者的で「他者性」を帯びているからこそある種のインパクトを与えるのだ。

「転校生として現われた」という例もある。昔から存在していたらしい人格が突然覚醒することもある。このような現象をこれらをDBS(Putnam)や「相互文脈化」(Howell)で説明できるのだろうか?おそらく否である。

 それに比べて私が依拠したいWinnicott のモデルはPutnam などの発達過程での「部分→統合」というのとも違う気がする。彼は自己が確立してから、非自己が生まれるのだ、とも言っている。ということは内側から外側に向かって一つ(自己)になった後に非自己が分化していくが、その過程で偽りの自己も出来上がっていくという印象を受ける。部分 → 統合体 → 分化(自己、非自己)というより複雑なプロセスを考えているように思われる。つまり部分は統合体になる前のもの、というのではなく、統合されたのちに偽りのいこという名の false self という部分が出来上がっていくのだ。その点が明らかに Putnam らと違う。 

考えてもみよう。赤ん坊が母親に同一化するプロセスでは、自分と母親の相違には気がつかないだろう。そのうちに「あれ?何かがおかしい」となるはずだ。つまり、やはり解離は自己の成立後に生じるはずである。それがもともとバラバラな状態のまま統合できない、というモデルとは違う。Winnicott が防衛的な解体という時は、やはりこの全体→部分に分かれるというプロセスが想定されているらしいのだ。

Winnicott が晩年に残した草稿には、こんな文章がある。

「私は私たちの仕事について一種の革命 revolution を望んでいる。私達が行っていることを考えてみよう。抑圧された無意識を扱う時は、私達は患者や確立された防衛と共謀しているのだ。しかし患者が自己分析によっては作業出来ない以上、部分が全体になっていくのを誰かが見守らなくてはならない。(中略)多くの素晴らしい分析によくある失敗は、見た目は全体としての人seemingly a whole person に明らかに防衛として生じている抑圧に関連した素材に隠されている、患者の解離に関わっているのだ。」(Winnicott, quoted by Abram,2013, p.313,下線は岡野)

思わずエーッとなる内容だが、これを補足する様に Abram は論じる。「Winnicott の理論では、自己は発達促進的な環境によってのみ発達する。その本質部分がない場合は、迎合を基礎とした模造の自己 imitation self が発達し様々な度合いの偽りの自己が発達する(それについては「真の自己と偽りの自己に関する自我の歪曲」(1960)という論文で論じてある。)そしてよくある精神分析では解離されたパーツ、すなわち偽りの自己の分析にいたらないのだ。(Abram p.313)

 私は勢い余って太文字強調したが、Abram を読んでいると、Winnicott の偽りの自己の議論は事実上解離の議論ということになる。少なくともAbram の筆致によれば、そしてWinnicott の記述を字義とおり取れば、彼はどうやら今の解離の議論を半世紀以上前に先取りしているということになるが、本当に信じていいのであろうか?