2025年1月19日日曜日

統合論と「解離能」 8

昨日の虹色(天然色)の議論に補足。

 


さらに言えば、人は常に天然色を放っていると言える。その時の気分だったり、たまたま回想している内容その他によるのだ。一人でいるときは特にそうだ。自由に好きな色を出している。

 ところが誰かに対面したときは、お互いの色を合わせるということをする。どちらに合わせるかは、どちらがより「支配的」かによる。顔色を窺わなくてはならない相手の場合は、とりあえず相手の色に合わせる。逆に気の置けない相手なら、自分の色はそのままでよく、相手に合わせてもらう、とか。ところが解離傾向を有する人の場合、相手に常に合わせ、かつその色がいくつかの単色に分かれているのだ。そのうちのどれかを、ちょうどいくつかのチャンネルのうちのどれかを選択するようにして合わせる。そこが離散的で解離的なところなのだ。

この図で言うと、色の三原色であらわされている部分で、それを統合すると白くなってしまうというわけだ。

さて以上、Patnum, Forrest らの発達論的な解離理論およびそれに準拠したHowell の理論について見てきたが、これらはどの程度妥当なのだろうか?

パットナムのBDSの概念は、解離は正常な発達(部分 → 統合)がおこなわれなかったという前提に立つ。DBSの概念とハウエルの文脈化の障害という議論とは近縁関係にあることは見てきた。だから正常ないくつかの心の部分の存在 → 発達によりそれらが統合される、というPatnumの基本的な前提はどの程度理屈に合っているのか、という問題になる。

しかしそれまで一つにまとまっていた心がトラウマにより第2,3の心が出現するというプロセスはそれで説明できるのだろうか?

トラウマで「解離が用いられる」という発想(解離能)とは程遠いことになろう。