2025年1月8日水曜日

「週1回 分析的サイコセラピー」書評 6

  どうやら山崎氏の狙いは、POSTはそれとして、やはり「分析的」の独自の在り方を模索しているようである。そして平行移動仮説の棄却に屈せず、それでも何とか分析的になれないかという点を考えあぐねているようだ。そして改めて見直すと、「分析的」にはそれなりの特徴があり、現実的であること(藤山、高野、岡田)に帰着するらしいのである。つまり分析だと精神内界にかかわることになるが、週一回だとあくまでも現実の生活に密着し、深く無意識の探求を行わないという姿勢になる。この方面を追求すべきではないか、あまり「分析的でない」ことに後ろめたさを感じず、ということらしい。  そこでやはり大事なのは近似仮説的検討だという。山崎論文の最後の方は、患者さんの意識的なニーズにこたえよう、という主張である。これもとてもよくわかる。というよりここに至って、彼の方向性はとてもリーズナブルで全うである。彼は精神分析の軛に悩まされながらも、何が将来必要になるかについて志向しているようにも見えるのだ。 では「分析的」とは精神分析的にやるのかといわば、どうやらそうらしい。しかしそれを「遠慮がちに」「身の程をわきまえつつ」やるのだ。そのことを山口論文はこう書く。「週一回では、転移は扱いづらいとされているが、方向性としては転移を『集め』、治療的に扱いながら内省へと向かう」(p.246)そうだ。結局やるのである。その調子!

ここまで読むと、岡田氏も高野氏もやはり「分析的」に独自性を見出しているようだ。それをもう少し読解してみよう。