このテーマについて考えるうえでとても参考になる論文を見つけた。RF. リチャードソンという人の「解離:機能的な機能不全」という論文である。
Richardson RF. (2019) Dissociation: The functional dysfunction. J Neurol Stroke. 9(4):207-210.
この論文は解離を一つの機能として理解している。
彼の引用から。
「もしある現実の一部が対応するにはあまりに苦痛な場合に、私たちの心は何をするのだろうか。痛みに対する生理的な反応が生じるのと同様に、私たちの心理的なメカニズムは深刻な情緒的なトラウマから守ってくれる。その一つのメカニズムが解離だ。それは機能を奪いかねない情緒的な苦痛を体験することなく日常的な機能を継続することを可能にしてくれるのだ。」
Richardsonは解離は人間ないしはあるいは生命体に備わった一種のブレイカーのようなものと考えているようだ。電気を使い過ぎるとカタッと下りる、あれだ。動物レベルでも生じるがその時は体の動きを止めることで、いわゆる擬死反応とも呼ばれる。それにより天敵に襲われることを防ぐという意味があるのであろう。しかしそれならシンプルに気を失うか、あるいはフリージングすればいいのであり、体外離脱のような複雑なメカニズムを必要とするのか、と思う。ただし考えてみれば擬死反応はそれを客観的に見ている部分を伴うならば、そこで冷静な判断を下すことが出来るため、単なるフリージングよりは生存の確立が上がるだろう。
私が興味があるのは、解離した自分とされた自分、つまり柴山先生のいう「存在する自分」と「まなざす自分」が出会うことで生まれる何かだ。両者の融合や統合ではなく、邂逅(かいこう)することで生まれる変化。この辺りは野口五郎のエピソードにかなり影響を受けている。何かのストレスが働き、体のブレイカーが勝手に下り、それが解除されるというプロセスである。
この論文で Rory Fleming Richardson は、心の機能を病的なものとしてしか見ないのは間違いであると指摘する。そして解離もそれに類するものだという。そして私たちが情緒的に耐えがたい体験をする際に、解離が緩衝材 buffer となることは、それにより今すべきことをするためには重要な働きであるという。
ところでRichardsonはp.208あたりで統合を薦めないいくつかの理由を挙げているのが興味深い。
1.ある特殊な能力を持ち高度の機能を果たしていた人格にアクセスできなくなる可能性。
2.患者が再び孤独になる可能性。
3.何時もそこにいなくてはならなくなる可能性。
そしてp.209あたりでさらに過激になっている。治療の目標は解離を絶やさないことだ。解離は必要であり、緊急の際に自らを離脱させるために必要なのだという。さらには自らの立場から離れて他者に共感することもできない、という。相手の立場をとる、ということが一種の解離だという論法である。
実はこの部分を書いていて私は新たな認識を得たという気がする。よくあるトラウマの際に人格が分かれる break off という表現を見かけるが(この Richardson 先生も同様である)、私はこれまでその考え方に抵抗があった。いかにも人格=断片、パーツ、というニュアンスを持ったからだ。しかしそれが人格の成立に関わる可能性は少なくないのではないか。つまり break off した部分は、次の瞬間からすぐに自律性を獲得するのである。それは複雑系の基本的な性質なのだ。たとえば切り出した心臓を幾つかに分解したら、それぞれが独自のリズムの拍動を開始するという事情と同じである。むしろ自律性を失うのは、他の部分との連結が生じている時である。左右脳のことを考えると、それぞれが自律性を獲得するのは脳梁が離断されたときである。