解離能の問題
この話のとっかかりは、体外離脱体験(OBE)が示唆するものについてである。私はOBEを解離体験のプロトタイプと考えているが、それは統合不全、DBSの表れとして理解できるだろうか?
そもそも体外離脱体験自身は一般人の数%の人が経験している。これは病的体験とばかりは言えず、場合によっては優れた能力と考えることが出来る。私たちは対自存在であるとともに対他存在でもある(サルトル)。ところがOBEにおいて生じているような解離における「存在者としての私」と「まなざす私」の分離は、対自存在のあり方をまさに血肉化したような現象であるといえる。そして一般人のごく一部の人たちにしか体験されないものである。これをある種の特権ないし能力ととらえる根拠は十分にあるだろう。つまりこれは一つの能力なのだ。これをここでは「解離能 dissociative capability」と呼ぶことにしよう。
「解離能」については、J.ハーマンの「解離能」の概念を参照したい。
ハーマン (1992) は「トラウマと回復」の中で、トラウマにおいて生じる解離を一つの能力(解離能 dissociative capability) と考えた。そしてそれがあるかないかでDIDとBPDの病理を分けて論じた。
DID=解離能を有することで、トラウマの際に自己の断片化や交代人格が形成される。
BPD=解離能力を欠くためにトラウマの際に交代人格を形成できないが、その代わりスプリッティングを起こす。
少なくともこの概念化の特長は、解離を一つの病理とばかりはとらえていない点である。つまりそれは人が潜在的に持っている能力か、あるいは一部の人間に備わっている能力としてみる立場を示しているのだ。