統合についての考察
さてここでこれまでの議論をまとめてみよう。ISSTDの最新のガイドラインを見た限り、統合から協調に方針を転換していることはかなり明らかである。この論考のテーマからすれば、この点を確かめるだけでもある程度は目的を達成できたかもしれない。しかしあえて最近の解離の治療論をいくつかピックアップして論じてみたのだ。
まず印象としては、ハウエル 先生による折衷案としての「相互文脈化」は一考の余地がある。論理的には一番収まり具合がいいのではないか。統合か、協調か、という二者択一を回避できるというのも、ハウエル先生のおっしゃる通りだろう。しかし他方では自我状態療法に由来する流れの中では、(例外的に?)ポールセンが明確に統合を目指し、またこちらは自我状態療法にどの程度近いかどうかは別として、小栗先生のUSPTもまた明確に統合を目指している。
一般論として言えば自我状態療法では催眠に由来するだけあり、催眠やEMDRなどの基本的な手技を治療手段として用いることを前提としている。そしてそれにより患者の心を操作するというニュアンスが強く、その流れの中で自然と統合が目指されているようである。
ちょっと思いついた例えだが、武道について考えよう。剣道においては竹刀を用いないということはあり得ない。すると攻撃は竹刀によるある種の打撃に限定されることになる。そこに足払いや関節技や寝技などは出て来ようがない。流派によってはあるかもしれないが、邪道扱いされておしまいではないだろうか。何しろそれらは竹刀を使わないからだ。ところが竹刀を用いない徒手空拳で行う武道(すなわち柔道や合気道)なら、打撃以外の多彩な技が考えられるであろう。
あるいは別の例えも思いついた。外科医なら外科手術しか治療手段はないことになる。メスを用いない外科的な手技などないだろう。それは勢い侵襲的になり、病巣の除去という最終目標も変わることはないであろう。(もちろん産科手術、移植手術などの場合は例外であるが。) ところが内科学の場合は、外科的侵襲以外の様々な治療が自在に選べることになる。
トラウマの治療でもトラウマ記憶の想起や人格の融合、統合といったドラマティックな介入以外の治療が自在に求められる。いわばマネジメントの役割が極めて大きくなるのだ。再び先ほどの例えを持ち出すならば、剣道なら竹刀を交える前の心理戦や駆け引きが勝敗にかなり大きなウェイトを占める。あるいは外科手術であれば、それを行う前のムンテラや心の準備や手術野の消毒などが手術そのものよりも大きな意味を持つ。(実際にその様な「手術」などあり得ないかもしれないが。)