前回のヒジャーブの話からのスピンオフ。はちょうど次のような男性の言葉を反映していると思われる。「女性が露出の多い服を着ているのが男性の劣情を掻き立ててしまい、それがいけないのだ」という議論である。
ところで私はこのテーマで本ブログの2011年1月12日のエントリーで次のような内容の文章を書いた。(以下再録)
今日はあるクライエントさん(20代女性)から話を聞いた。女性にとってのかわいい、とは何か。彼女はジーンズやパンツよりはスカートがかわいい、という。だから自分はそれをはいている。それはキュロットでは表現できないかわいさだという。しかしそれはセクシュアルな意味があまりないようである。なぜなら「男性の目は関係ない」と言い切るからだ。女性はかわいく見せたいし、女性の間でもかわいさを競うというところがあるという。女子高であってもそれは同じだそうだ。
この女性の追及するかわいさが、セックスアピールとは微妙に、あるいは明らかに異なるという点は重要であろう。男性が女性のかわいさを魅力的と感じたとしても、そこにはどこか倒錯的なところがある。秋葉原でメイド服を着た女性たちに対して男性はそこに一種倒錯的(オタク的)な視線を向けることになる。それは女性たちがセックスアピールとは異なる「かわいさ」を発散しているつもりでも男性はそこに性的な魅力を覚えてしまうということになる。
確かにかわいい、はセクシュアリティと関係しているようでしていない部分がある。彼女たちはアクセサリーを見ても「かわいい!」と言ったりする。うちのカミさんは、コーヒーカップも、トイレの便座カバーも、明らかに「かわいい」(彼女にとって)ものを買ってくる。そしてそのかわいいはもちろん、うちの犬チビの「かわいい!」とも結びつく。子犬、子猫の「かわいさ」は言うまでもない。そして … 人間の赤ちゃんを見たときの「かわいい」にもつながっているかもしれない。そう、女性にとってのかわいいは、幼児を見たときの「かわいい」に通じるところがある。しかしではどうして彼女たち自身が「かわい」くありたいのだろうか?動物学的に考えたら、男性を惹きつけるために女性がかわいくありたいとしたら、繁殖にむすびつくという意味では合目的的である。しかし繰り返すが、彼女たちがかわいさを追求する際にそこに男性の目はあまり意識されていないのである。
自分もかわいくありたく、そしてかわいいものにひかれるというこの女性の特徴は、女性に特有の対象との同一化傾向と関係しているのかも知れない。対象の気持ちが分かり、対象に同一化し、対象を取り入れ、また対象の中に自分を見る。この傾向が、私がつねづね考える「関係性のストレス」と繋がっているかも知れないと思うのは飛躍であろうか。
何か締まりのない文章だが、一応参考にしよう。