ポールセンの用いるテクニックの中で興味深いのは「BASK要素の封じ込め containment」である。BASK モデルとは、Braun, B. G. (1988)の提唱したもので、人間の活動は behavior 行動 、affect 感情 、sensation 感覚 、knowledge 知識 というトラックにより成り立っており、解離においてはのうちどれかが欠損しているという理論である。そして「BASK要素の封じ込め」とは解離されている体験を、まとめて一つのボックスに入れておくというテクニックだという。いわば一時的に解凍されたトラウマ記憶をそのまま取っておくという作業らしい。これは仕舞いこみ、とも表現されているが、要するに外傷記憶が賦活された状態で、いわばフラッシュバックがおさまっていない状態に対する対処法と言える。それをポールセンは小さいパーツが未だに「しまい込まれていない」と表現するのだ。また興味深いのは、ポールセンはフロントパート(他者と関わる時の表向きの顔)と未解決のトラウマ記憶を抱えているほかのパーツの間の健忘障壁を利用するという姿勢だ。 ポールセンを読んでの感想を述べよう。やはり催眠から出発した療法家たちは、ワトキンㇲも含めてとても操作的で、言い方によっては「機械的、理系的」とも言える。私も「心の地下室」などの手法にはなじみがあるが、ポールセンのようにそこまでクライエントにいろいろ操作をすることには少し後ろめたさを感じる。しかしそれは彼らにしてみれば、「それでは何も治療をしていない」ということになるのだろうか。 このテーマとの関連でゲシュタルト療法を思い出す。患者さんに empty chair (空の椅子)を想像してもらい、そこに座っていると想像している誰かに話しかけてもらう。例えば自分の亡くなった母親に対して、これまで言えなかったことを言う、などである。これは単に「お母さんへの思いを話してください」ということとどれほど違うだろう? おそらくケースによれば、すごく臨場感あふれるセッションになるかもしれない。すくなくとも悪くはないやり方であろう。それなら同じ状況で「空の椅子」の手法を私達は用いるだろうか? ケースバイケースとしか言いようがない。認知療法しかり。エクスポージャー法しかり。EMDRも同様である。それらはしばしば一つのメソッドとして抽出され、プロトコールが出来上がり、その為の研修が行われる。ポールセンの推奨する治療法も、EMDRによるトラウマ処理の流れの延長として想定される治療目標と言えるだろうが、本当に現実の人間はその様に動くのだろうか。 ポールセンのテキストもプロトコールを作るうえで恐らく「統合」というかなり遠く、おそらくバーチャルな目標も書かざるを得なかったのではないかと思えてしまうのだ。