あとがきのかわりの妄言
… そしてその連載の2024年3月の終了に際し、その12回の連載の内容を加筆修正して一書にまとめたのが本書である。一冊の本としての分量はかなり少なく、コンパクトなサイズになったが、その体裁を整えつつ内容を振り返ると、まさに私はこの連載により心について改めて考えることが出来たという実感がある。ある意味では毎回がチャレンジであり、書き上げる過程で考えを進めることが出来た。そしてそのような意味でこの機会を与えていただいた遠見書房の山下俊介様には深く感謝の意を表したい。ゲラの段階で「結構面白いですよ!」などと反応していただいたおかげで最終回までこぎつけたのである。
この連載により心や脳科学についての私自身の考えは格段に進んだと思うが、それを読む読者の中には「そんなことわかっているよ!」という反応も「どうしてそこに話が繋がるの?」という反応も、「それはあり得ないだろう!」もいただくことになるだろう。その意味で私は自分の学習過程に読者の方々を付き合わせてしまうことに、多少の後ろめたさがある。しかしもともと正解のないような分野において私なりに一つの立場はお示しできたように思う。
稿を終えるにあたり、私には多少なりともやり残した感のあるテーマがある事を忘れてはいない。例えば第3章で提示した
の議論だ。つまりコンピューターやAIが進んで「心もどき」が進化した末に、私達人間が持つような正真正銘の心に行きつくのか?という問題である。この問いに関する答えはすでに5章に示した通りである。しかし私の中では、「だからAIは出来損ないの、本当の心を生み出せないものだ」という思考にはつながらなかった。
その代わりに私が至ったのは、AIが心を生み出せないのは無理もない話だという考えである。むしろ私達の心やクオリア、あるいは意識そのものがバーチャルであり、それゆえに(?)いかにユニークでかけがえのないものか、という認識を持つことが出来たのだ。そして心を持つことは、恐らく情緒、あるいはもっとシンプルには快/不快を与えられている存在の特権なのだという考えに至ったのだ。
すでにアニサキスのような線虫の段階で。進化論的には快、不快につながっていくドーパミン作動性の神経が確認される。実体顕微鏡下で線虫を針でつつくと、体をよじらせて痛がるようなしぐさを見せるだろう。(私は実際にそれを確かめたわけではないが、何しろ単細胞のアメーバでさえ同じような様子を見せるのだから、容易に想像がつく。)しかし線虫はほぼ間違いなく痛みを知らないだろう。痛そうな体の動きをするだけだ。その意味で彼らは「AIレベル」なのだ。
線虫からはるかに進化の坂道を下り、しっかりと形を成した大脳辺縁系を備えた哺乳類以上に至った生命体は痛みを覚え、意識を宿しているだろう。他方ではAIがいかに進化を遂げ、巨大なニューラルネットワークを有するようになっても、辺縁系はどの段階からも生まれて来ず、このままでは永久に心を宿すことがないだろう。
結論から言えば、以下のようになるというのが私の結論である。
しかしこれからAIがどの様な進化を遂げるかは予測できない。量子コンピューターが登場してこの先どの様な発展がみられるかはわからない。それに少なくともAIはとてつもない「知性」(第5章)を有していることは間違いない。それはあたかも心を有しているかのように私達とコミュニケーションを行なうのに十分である。おそらくあたかも心を持つかのようにふるまう能力を今後ますます発展させるだろう。そしてそれはかりそめにも私たちの心を和ませ、孤独感を癒してくれる可能性がある。少なくとも私の頭の中のフロイトロイド(第3章)はすっかり良きパートナーの姿をしている。
このAIが目覚ましい進化を遂げる現代において、私たちは改めて心がいかにかけがえのないものであることの再認識を促されている。しかし多くの「先進国」において人口減少には歯止めがかかっていない。これからは私たちはAIによって癒され、助けられざるを得ないだろう。そして私たちの心はその様な特技をも有していることに感謝すべきではないか。
令和6年 薫風の候に