次に「行為と行為主体」としてCBT(認知行動療法)について語られる。その対象としてのうつ病では、主体は「私は何をやってもダメだ」と考えて行動に移さない。つまり予測が常に下方に偏っていることになる。そしてそれが正しいか誤り化を確かめるための行動にそもそも出ないのだ。ここで損なわれているのは行為主体なのである。これに対してCBTはそもそも「何をやってもダメだ」は一つの仮説に過ぎないということを主体に伝え、それが誤った予測である可能性について検討する。 精神療法一般については次のように言う。そこでは生物行動的同期性が起きていることで患者は治療者の脳を借りてより大胆になり、それが「デュエットフォーワン」を両者が共同で歌うことに導く。そしてそこでは一種の集団心理が生まれ、思考と感覚は共同で所有されることになる。
PEM(予測誤差最小化)の原則は、治療においては「驚きを最小化する」ということであると言う。しかし驚きが人生につきものである以上は、それを持ちこたえて生き続けるのを助けるのが治療である。
ホームズはまたデフォルトモードネットワークにも言及している。このネットワークの活性化により夢や自由連想から生まれる新しいアイデアが受動的に「耳を傾けている自分自身に耳を傾ける」と同時に受動的に「自分自身に耳を傾ける」ことで立ち現れてくるという。
本書のエピローグではFEPの理論は圧倒的な実証的支持を得られているというわけではなく、ヒューリスティックで刺激的な指導「原理」であるとしている。そしてそれは、同じく説得力があるものの理論的な憶測の域を過ぎない物理学のひも理論に似ているとする。さらにホームズが全面的に合意しているいわゆる神経精神分析学への手厳しい反論の存在も教えてくれる。
その上でいくつかの重要な提言を行なう。変化をもたらすmutative のは共通要因、すなわち治療関係そのもの、一貫した理論的枠組みなどが多いということ。すなわち知的な解釈ばかりではないということだ。
最後にホームズはその上で本書の主張を繰り返す。心理面での健康は、自由エネルギーの拘束,予測誤差の最小化であるとするならば、それをはぐくむのは行為主体の開放、感覚サンプリングの向上、夢分析、解釈、アクティブイマジネーションによるトップダウン仮説の可能性の拡大、変化を促す悲しみの涵養であり、生物行動的同期性、会話の話者交代の形を取るデュエットフォーワンなどがそれを促進するということである。
さて、このくらいゆっくり読んだことで「まえがき」も書き始められそうだ。