2024年4月6日土曜日

解離ーそれを誤解されることのトラウマ 3

 このSCMを奉じる人たちにも色々いるらしい。彼らの「過激さ」にも程度の差があるということか。例えばSCM信奉者の中にも、「DIDの人たちには過去に外傷体験が見られることが多い」という人もいるという。しかしそれはトラウマが解離を生むということを認める事ではない。それはトラウマがその後のその人のファンタジーに浸る傾向や治療者の暗示に対する受身性を増すということを主張したいというのだ。

 ちなみに私はこれを読みながら、私は数年前にスコット・リリエンフェルドという人の著書の記載にガッカリしたことを思い出した。彼の本は心理学や精神医学における都市伝説に対する論駁を行なうという意味では痛快な本だが、解離やDIDについてはかなり否定的で、要するにSCMを擁護する記述で一貫しているのである。(リリエンフェルド,SO.,リンSJ., ローJM. 編 巌島行雄、横田正夫、齋藤雅英訳 臨床心理学における科学と疑似科学 北大路書房 2007年。)

さてここまでの議論したうえで、フロイト—ラカンモデルが登場する。一応FLMとしておこう。著者はこういう。「特定のトラウマと解離との間の関連性がない以上、トラウマが解離を生むという説には説得力がない」とし、Bistoen et al. の論文を典拠にあげている。 しかしここで重要なのは、DIDやヒステリーは現実のもの real かという議論は何も生み出さないことであるという。たとえトラウマがDIDの原因と確定できなくても、被暗示性や医原論がそれに取って代わることで、DIDは real ではないということにはならない(Hacking,1992)。それはその通りだ。考えても見よう。心因性高体温症という状態が知られているが、暗示により体温が上昇して例えば7度5分になったとしたら、それは現実として受け入れるしかないであろう。それと同じ議論だ。

Hacking, I. (1992). Multiple personality disorder and its hosts. History of the Human Sciences, 5(2), 3-31. 

そこでこの問題にもう少し踏み込む。フロイトは自我の発達は他者との同一化のプロセスの結果であるとした。その上で1923年の論文(Ego and Id)で、「あまりに沢山の人に同一化すると、それぞれが自己主張をし出して、多重人格になってしまう」という言いかたをしている。そう、フロイトはDIDに言及しているのだ。そしてラカンはここから出発し、鏡像段階の議論を経て、同一化は他者が与えるものとのそれであるとした。そして特に人間は言語を用いることで象徴界におけるシニフィアンの宝探しに出るという。そして他者との同一化を通じて一種の疎外 alienation が生じる。(ただしラカンはDIDについて言及しているわけではない)>
 ちなみに象徴界との関係で言えば、現実界は定義から言ってトラウマであり、それは言葉で表され得ないからであるという。(フロイトのトラウマの定義も実はこれに近い。)このように考えるとラカンにとってもフロイトにとっても、象徴化し、言葉に直すことが出来ない現象がトラウマで、それがDIDの成立と関連していると言えそうだが、そうとも言い切れない。(繰り返すがラカンはDIDに言及していない)。
 その代わり人間は自分という存在に伴うギャップを抱えたまま生きるということになる。そして母親という他者との関係がトラウマ的であるならば、この自我の成立に決定的な影響を与えることになる。そして抑圧と症状形成というプロセスを踏めずによりカオティックな人生を歩むようになる。ここでMeganckはもっともらしい言い方をしている。
「DIDの場合、トラウマは幼少時の対人関係であるため、緩んだ自己体験や、現実界を包む象徴界—想像界の脆さゆえに、主体の分裂がより生々しく加工されていない形で現れる。It seems that in DID, where the trauma is mostly situated in childhood interpersonal relationships, the resulting loose self-experience or precarious symbolic-imaginary envelope of the Real gives rise to a more raw and unprocessed appearance of the divisio of the subject. 」  ・・・・・DIDの事だろう。