2024年4月4日木曜日

Jeremy Holmes の本 11

 第8章 心理療法の実践的含意

 おそらくもっとも包括的で重要な章である。本書で述べられたことはこの章で繰り返され、リマインドされる。本章の要点は、「精神療法は基本的にPEMに向けられるものである」ということだ。なぜなら予測誤差は行動化に移され、それをワークスルー、リブスルーされるからであるという。ホームズの考えでは、予測誤差は不快を生み、人間は一心にそれを最小化しようとする。行動はその最たるものであるとさえいう。  ところでこのホームズの本を読んでいる限りは、人間の活動は結局はPEMを目的とするというこの前提は、至極当然のように思える。しかし「本当にそうなのかな?」という疑いは常にある。実はフリストンのこの理論を知った3年くらい前から、私はそのような冷めた目で見ていたという事情がある。

 考える一つの試みとして、ドーパミンシステムにおける予測誤差の議論を取り上げよう。これは自由エネルギー理論とどのように関わるのだろうか? 
 ドーパミンの話を思い出そう。喉が渇いた人が目の前に冷たいコップ一杯の水を差しだされる。ドーパミン細胞の興奮がこの時起きる。実際に手を伸ばしてコップを掴み、水を口に流し込む。まさに予想通りの美味しさだったらドーパミンの興奮はその際には起きない。しかし実際には水ではなくアルコール飲料であったとしたら、予想以上の快を味わうことでドーパミンニューロンはその際にも興奮する(ただし酒好きの人の場合)。思ったほど冷たくなく美味しくもないただの水道水だったとしたら、失望してドーパミンの「マイナスの興奮」が起きる(ベースラインの興奮が低下する)。
 ドーパミンの場合の予測誤差は、未来におけるXの量の快を予測し、それが+Xか−Xかだった時にその差異が快か不快として体験されるという意味である。この際人は予測誤差を最小にしようとするだろうか?特にそういうわけではないだろう。しかしそれは結果的に最小になる方向に動くのだ。
 一つ言えるのは、−Xの体験は間違いなく不快であるということだ。もちろん+Xの体験は間違いなく心地よいものだ。しかしとにかく−Xだけは避けたい。ぬか喜びはしたくない。だから目の前に注がれたコップ一杯の水(らしきもの)が本当に自分が想像する美味しさを提供してくれるかには特別に注意を向けるだろう。しかしそれでは私達の持つ「過剰に期待する傾向」はどうだろう? 包みを開ける前のプレゼントは大抵は実際の価値よりは膨らんでいる。後で辛い−X を味わうことが分かっているのに、私たちは実際に得られる快を過大評価してしまうのだろうか?それは予測誤差を逓減するのとは逆の方向後からも私たちの心は備えているということにはならないだろうか。
 このように考えると少なくともドーパミンニューロンの興奮に関わる予測誤差は、PEMに必ずしも当てはまらないことにある。するとどうだろう?ヘルムホルツ→フリストンの自由エネルギー論、実は現実とは異なる可能性はないか?自由エネルギー理論は生命体においてはPEMの最小化に向かうという公理から出発している。それそのものを疑う必要はないか、ということだ。