2024年4月28日日曜日

「トラウマ本」 トラウマと身体 加筆訂正部分

 Porges のポリヴェーガル理論

Porges の唱えたポリヴェーガル理論(2003, 2007, 2011, 2017) は、自律神経系の詳細な生理学的研究に基礎を置く極めて包括的な議論であり、心身相関に関する新たな理論的基盤を提供する。自律神経は全身に分布し、血管、汗腺、唾液腺、内臓器、一部の感覚器官を支配する。通常は副交感(迷走)神経系と交感神経系との間で微妙なバランスが保たれているが、ストレスやトラウマなどでこのバランスが崩れた際に、様々な身体症状が表れると考えられる。その意味で自律神経に関する議論はその全体がトラウマ理論の重要部分を占めることになるだろう。
 Porges の説を概観するならば、系統発達的には神経制御のシステムは三つのステージを経ているという。第一段階は無髄神経系による内臓迷走神経で、これは消化や排泄を司るとともに、危機が迫れば体の機能をシャットダウンしてしまうという役割を担う。これが背側迷走神経複合体(dorsal vagal comlex,DVC)の機能である。そして第二の段階はいわゆる闘争・逃避反応に深くかかわる交感神経系である。  従来は自律神経と言えば、これらの交感神経系と副交感神経(迷走神経)系の二つが知られるのみであった。この両者がバランスを取ることで心身の恒常性が維持されることが自律神経系のもっとも重要な機能であるという事を私は医学部時代に教わり、ごく自然に受け入れていたのである。

ところがPorgesの理論の独創性は、哺乳類で発達を遂げた第三の段階の有髄迷走神経である腹側迷走神経(ventral vagal comlex,VVC)についての記述にあった。VVCは環境との関係を保ったり絶ったりする際に心臓の拍出量を迅速に統御するだけでなく、顔面の表情や発話による社会的なかかわりを司る頭蓋神経と深く結びついている。

私たちは通常の生活の中では、概ね平静にふるまうことが出来るが、それはストレスが許容範囲内に収まっているからだ。そしてその際はVVCを介して心を落ち着かせ和ませてくれる他者の存在などの助けにより、呼吸や心拍数が静まる。ところがそれ以上の刺激になると、上述の交感神経系を媒介とする闘争-逃避反応やDVCによる凍りつきなどが生じるのである。このように Porges の論じたVVCは、私たちがトラウマに対する反応を回避する際にも自律神経系が重要な働きを行っているという点を示したのである。
ポージスが提示した「腹側迷走神経」により、それまで一つであった迷走神経は、腹側と背側に分かれることになった。つまり従来の迷走神経は、新たに「背側迷走神経」、すなわち神経系の背中側にある迷走神経として位置づけられたのである。これは解剖学における大きな発見であった。 

解剖学は医学の中でも基礎医学と呼ばれる分野に属する。この分野では長い歴史の中で様々な研究が行なわれ、そこでは顕微鏡的なレベルでの新たな組織が発見されたという場合ならまだしも、全身に広がっている広大な組織である自律神経系の新たな系統を発見して命名するというのは非常にまれであり、画期的な出来事と言える。例えていうならば、日本のある地方に巨大な活断層が存在していることが新たに発見され、しかもそれが日々の地震活動に大きな影響を与えていることがわかるようなものである。

ところでPoegesがこの腹側迷走神経を「社会神経系」と位置づけたことも重要な意味を持っていた。それまで自律神経と内臓との関係は深く知られていたが、そこに対人関係を司る意味が加わったことになる。これは他者との交流は感情のやり取りであり、それは多層にわたる身体感覚や内蔵機能の働きと不可分であり、それを主として担っているのがこの神経系であるという理解であった。

このように自律神経系を従来から知られている交感神経系や背側迷走神経系(従来考えられていた迷走神経系)との複雑な関わり合いを対人関係の文脈から包括的に論じるのが、このポリヴェーガル理論なのである。