2024年4月27日土曜日

「トラウマ本」 トラウマと解離性健忘 加筆部分 3

 解離性遁走があるかないかの違い

解離性健忘では、空間的な移動を伴ういわゆる「解離性遁走」を伴うかどうかの分類もある。解離性遁走とは自分自身のアイデンティティの感覚を喪失し、数日~数週間ないしはそれ以上にわたって、家、職場、または重要な他者のもとを突然離れて放浪することで、その時は「自分は誰か」という自覚もなくしている。だからこそ帰宅する努力をせずに、時には何か月も時間が経過することがある。
 DSMやICDの以前の分類では、以前の版(すなわち2000年のDSM-IV-TR及び2013年のICD-10)ではこの解離性遁走は独自に一つの疾患として提示されていた。そしてそれとは別個に解離性健忘という診断があったのである。しかしこれらの最新版(2013年のDSM-5および2022年のOCD-11)診断基準が代わり、解離性遁走は解離性健忘の下位に分類されることになった。
 そこにはいくつかの理由があったとされる。一つには遁走が生じた場合に、当人が見知らぬ場所で当惑し混乱する、あるいはそこから新たな人生を歩むということで社会の耳目を集めることが多く、そのために事例化しやすかった可能性がある。しかしもちろん遁走を伴わない解離性健忘も数多く存在し、遁走を伴う解離性健忘と伴わないそれを明確に分ける必要もないという考えが背景にあったのであろう。
 ただし私は解離性遁走はそれ自身が独自の病理を有し、通常の解離性健忘とは分けて考えるべきであるという立場である。突然解離が生じて自分を規定する様々な諸条件から解放された時に、人は放浪する性質を有しているのではないだろうか。また解離性遁走と解離性健忘は実は似て非なる病態を表しているのではないかとも思う。それは以下の理由からである。
 改めて考えてみよう。解離性健忘とは、「現在の主体」がある過去のことがらを想起できないということだ。他方その健忘の対象となっている出来事が起きていた時の主体(「その時の主体」と呼ぼう)はおそらく何が起きているかを把握していたであろうから、その病理性を問われることはない。なにしろ「健忘」はまだ生じていず、事後的にしか確定しないはずだからだ。つまりそこにある問題は、健忘している今の主体と、かつての出来事の主体は別々の存在であり、両者が「解離」しているということだ。そして病理性が問われているのは、現在の主体の方である。
 ところが解離性遁走の場合はどうだろう。上述の議論に沿えば、後者の健忘されてしまった出来事における主体が、解離性遁走の主体に相当することになる。そして「その時の主体」が病理性を問われていることになるのだ。つまり一般的な(つまり遁走を伴わない)解離性健忘と逆の関係にある。

ここで遁走中の「その時の主体」にはそのものに病理性が見出させるのがふつうである。通常遁走の間の出来事は後に想起されることは極めて少ない。それは遁走中の主体はいわば朦朧状態であり、おそらくその時に職務質問を受けたとしても、満足な答えが出来ないという可能性があるからなのだ。そしてその意味で解離性健忘と解離性遁走を別物として扱う根拠もあると私は考えるのだ。
 ただしこれには異論も唱えられるであろう。解離性健忘が生じている際、健忘されている出来事は、酩酊状態であったりそれに類似した意識混濁や意識レベルの低下を起こしている可能性がある。飲酒によるブラックアウトや睡眠時随伴症(「寝ぼけ」)を考えればわかる通り「その時の主体」の正体も結構怪しいことになろう。しかしそのような主体こそフラフラとさまよいだす可能性が最も高いのであり、その意味では解離性遁走に病理が近いことになろう。