まえがき
本書は精神科の臨床医である著者が、脳科学から見た心の問題についてエッセイ風にまとめたものだ。
最初にお断りしなくてはならないが,私は決して「脳科学者」ではない。毎日何十名の患者さんと対面し、臨床を行なう老境の精神科医だ。そして精神療法家,精神分析家、いわゆる「カウンセラー」でもある。精神科医や精神療法家は毎日患者さんの訴えを聞くことが仕事である。仕事のメインの部分はその訴えに応じて一緒に考えたり新たな考え方を示したりすることであり、また患者さんの訴える症状に応じた薬を処方することだ。つまり一日の業務の中に、脳について勉強したり、研究を行ったりという時間は特別設けられてはいない。
しかし精神科医やカウンセラーは特別心の仕組みについてあれこれ思いめぐらすことが多い。「どうして薬は有効なのだろうか」、とか、「どうして偽薬効果が発揮されるのだろうか」、とか「どうして幻聴が聞こえるのだろうか」、あるいは「どうしてこの患者さんは一つの考えから抜け出すことができないのだろうか」・・・・などなどである。時には「私の仕事は最後はAIでも行うことができるのだろうか」、「やがて私の仕事はコンピューターに取って代わられるのだろうか」、などについても考える。そしてこれらの考えを深める上で、脳についての知見は明らかに重要なのである。ただしそれでも私は脳科学を専門とはしていない。
もちろん精神科医の中には脳についての研究をしている方もいらっしゃるだろうし、彼らは脳科学についての専門的な知識を持っていることになる。しかし脳科学の道は遠く、また途轍もなく深い。その世界に飛び込んで何らかの発見をするには人生はあまりに短く、また一度飛び込んだ精神科医の世界では毎日の患者さんとの対応で精いっぱいなのである。
しかし精神科医が専門外の脳科学の知見に耳を傾けることのメリットは大きい。新たな知見が次々と発表され、それらの知識を縦横無尽に用いて心の問題を幅広く考えることができる。
本書はその様な立場にある私が脳科学の知識を用いつつ、心の問題について問い直す試みである。繰り返すが脳の世界、心の世界は途方もなく奥が深い。その理解の仕方にも様々なアプローチがありうる。私が以下の12章で示すのはそのほんの一例であるにすぎないが、何か読者のお役に立てることを願っている。しかし私に新たな脳科学の知見を縷々論じるという能力はない。あくまでも心理療法家の立場から脳科学がどのような意味を持っているかについての考えをお伝えすることになる。どうかそのつもりでお読みいただきたい。