2024年4月24日水曜日

 あとがき(少し改善)

 本書は○○書房により2023年春に創刊された××の連載としてスタートした。そしてその連載が終了した2024年3月を機会に、その12回の連載の内容を加筆修正して一書にまとめたのが本書である。一冊の本としての分量はかなり少なく、コンパクトなサイズになったが、その体裁を整え、加筆修正をしつつ内容を振り返ると、まさに私はこの連載により心について改めて考えることが出来たという実感がある。ある意味では毎回がチャレンジであり、書くことにより考えを進めることが出来た。そしてそのような意味でこの機会を与えていただいた▼▼様には深く感謝の意を表したい。ゲラの段階で「結構面白いですよ!」などと反応していただいたおかげで最終回までこぎつけたのである。
 この連載により心や脳科学についての私自身の考えは格段に進んだが、それを読む読者の中には「そんなことわかっているよ!」という反応も「どうしてそこに繋がるの?」という反応も、「それはあり得ないだろう!」もあり得るだろう。その意味で私は自分の学習過程に読者の方々を付き合わせてしまうことに、多少の後ろめたさがある。しかしもともと正解の少ない分野での議論なので、心に関する一つの立場はお示しできたように思う。

 稿を終えるにあたり、私には多少なりともやり残した感のあるテーマがある事を忘れてはいない。例えば例の

テキスト

自動的に生成された説明

の議論だ。つまりコンピューターやAIが進んでそこに見られる「心もどき」が進化した末に、私達人間が持つ心に行きつくのか?という問題である。この問いに関する答え、すなわち【心】は進化しても心に行きつかないという私なりの結論は、すでに5章に示した通りである。しかしそれはだからAIは出来損ないの、本当の心を生み出せないものである、という思考にはつながらなかった。
 その代わりに私が至ったのは、AIが心を生み出せないのは無理もない話だという考えである。むしろ私達の心やクオリア、あるいは意識そのものがバーチャルであり、それゆえに(?)いかにユニークでかけがえのないものか、という認識を持つことが出来たのだ。そしてそれは恐らく情緒、あるいはもっとシンプルには快/不快を与えられている存在の特権なのである。

 すでに線虫の段階で進化論的には快、不快につながっていくドーパミン作動性の神経が確認される。実体顕微鏡下で線虫を針でつつくと、体をよじらせて痛がるようなしぐさを見せるだろう。(私は実際にそれを確かめたわけではないが、何しろ単細胞のアメーバでさえ同じような様子を見せるのだから、容易に想像がつく。)しかし線虫はほぼ間違いなく痛みを知らない。その意味で彼らはAIレベルなのだ。
  線虫からはるかに進化の坂道を下り、しっかりと形を成した大脳辺縁系を備えた哺乳類以上の進化を遂げた生命体は痛みを覚え、意識を宿している。他方ではAIがいかに進化を遂げ、巨大なニューラルネットワークを有するようになっても、辺縁系は生まれてこない。

結論から言えば、以下のようになるというのが私の結論である。

 しかしこれからAIがどの様な進化を遂げるかは予測できない。量子コンピューターが登場してこの先どの様な発展がみられるかはわからない。それに少なくともAIはとてつもない「知性」(第5章)を有していることは間違いない。それはあたかも心を有しているかのように私達とコミュニケーションを行なうようになっている。おそらくあたかも心を持つかのようにふるまう能力を今後ますます発展させ、それはかりそめにも私たちの心を和ませ、孤独感を癒してくれる可能性がある。と言うか私の頭の中のフロイトロイド(第3章)はすっかり良きパートナーの姿をしている。

 このAIが目覚ましい進化を遂げる現代において、私たちは改めて心がいかに特殊でユニークで、私たちにとってかけがえのないものであるこの再認識を促されている。そしてそれ以上に私たちはAIによっても癒され得るという特技を持っているのではないだろうか。