2024年4月21日日曜日

脳科学と臨床心理学 第一章 加筆部分1

 心のソフトウェアは存在しない?


以上述べたように、ハードウェアとしての脳とソフトウェアとしての心の働きへの関心は、私の中では両立しているが、やはりハードウェアとしての脳の研究により明るい未来を感じる気がする。その理由を以下に説明したい。

心とは不思議で魅力的で、かつ謎めいたテーマであることは間違いない。だから心というソフトウェアを理解する上で一つの代表的なツールと考えられる精神分析にも大いに期待を寄せたのだった。しかし最近になり、私の中で起きたある種の気付きがあった。それは心のソフトウェアなるものは存在しないのではないか?という事であった。
 心がソフトウェアに例えられるなら、それをデザインした存在があるはずだ。そしてそれが心の所有者である私たち自身ではありえないとしたら、それは神でしかないであろう。しかし神もまた私たちの心の産物であるなら(と少なくとも無神論者の私は思うのだが)、結局心の作者はどこにもいなかったことになる。つまるところ心そのものが、私達の幻想の産物でしかないという結論にどうしても行き当たる。心にいかに決まり事や原則を見出したつもりになっても、例外に遭遇してはいったん掴んだように思えた「心とは何か」への理解が崩れてしまう、という経験を、私は精神医学の臨床場面で繰り返し持ったのである。
 たとえばフロイトは「夢は無意識の理解に至る王道である」や「人間は想起する代わりに反復する」などの言葉を残した。これらは人の従う原則を大胆に描いているという点では見事であると思う。しかしそれらが見事に当てはまるように思えるような臨床場面はそう頻繁には訪れない。個々の心はあまりに蓋然性に満ち、予想不可能な動きをたどることの方が圧倒的に多いのだ。心に法則を見出そうという構えを解くことでしか心のリアルなあり方に近づくことが出来ないのではないかと思うことも多いのである。
 もちろん人の心にある種の決まり事や法則が全くないわけではない。たとえば人は多くの場合は他者から肯定され見守られることで安心や心地よさを体験する。逆に自分を認めてもらえないことで深刻な心の痛手を被る傾向にある。あるいは人は自分が生きていることに、あるいは自分の行動に、そして他者の行動に、さらには自然現象に様々な意味づけをせずにはいられない。また深刻な傷つきを体験した後にはそれを思い出したり直面したりすることを死に物狂いで、あるいは衝動的で不適応な行動により回避する。これらは大多数の人間にとって当てはまる性質なのだ。

しかしこれらの一見法則や決まりのように思える性質は、心の仕組みというよりは生命体として、あるいは社会的な存在として生き残るための条件のように思える。(それにその生命を維持することでさえ、時々人間は自ら放棄してしまうのだ。それらをどうやって整合的に理解し説明することが出来るだろうか?)

心というソフトウェアが存在しないのではないかという私の根拠は以上のようなものだが、それは人の思考や行動はいくつかの本能的な動き以外は実際の経験を経て自然と組み上がっていくものだという理解に導く。そもそもソフトウェアを備えない人間は成長する過程で、何も教え込まれない。例えば日本に生まれ育つうちに、大多数の子供は日本語をごく自然に話すようになる。彼らは単語帳も必要としないし文法も習う手間もいらない。つまり日本語のソフトはどこにも介在していないのだ。

あるいは子供は歩くという行動をおそらくごく自然に習得するであろうが、特にそれを教え込まれるわけではない。ただ周囲の人の模倣をすることにより歩けるようになるのである。おそらくそこにはある行動をする人を目の前にして、ごく自然にそれをコピーするという仕組みは備わっているのだろう。最近よく話題になるミラーニューロン・システムなどもその例だろう。