この第三段階についての私の主張は、一昨年に上梓した「解離性障害と他者性」(岩崎学術出版社、2022)という著書に詳しく論じてある。ここではそのあらすじを追うだけにしたい。
この著書のタイトルに示されている通り、解離性障害において現れる交代人格をどのようにとらえるかは極めて難しい問題であるが、私はそこに他者性を見出す、分かりやすく言えば他者である、という主張を行なっている。ところが実際には他者として見なさないという伝統があったのだ。そしてその最初の段階として、交代人格が部分、ないしは断片として扱われる歴史について論じた。
そもそも解離性の人格を部分や断片と言い表す伝統は米国にあった。米国の催眠療法の泰斗 Hebert Spiegel は解離を「断片化のプロセス fragmentation process 」と表現した。
解離性障害の巨匠 Frank Putnam は人格の断片personalty fragments として解説している。私はそれを特に問題視していなかったのだが、1994年の David Spiegel (上述のHerbert の息子である)の次の言葉を読む機会があったことが一つのきっかけとなった。
誤解してはならないのは、DIDの患者の問題は 、複数の人格を持っていることではない。(満足な) 人格を一つも持てないことが問題なのだ。(2006) Indeed, the problem is not having more than one personality, it is having less than one (Spiegel, 2006 p567.)
やはりこの表現はどう考えても差別的である。そして重大な問題を含んでいる。彼は別人格だけでなく、主人格、ないしは基本人格でさえも「満足な人格」ではないと言っているのである。さすがにこれはないよね。