あとがき(失敗作)
本書は遠見書房により2023年春に創刊されたオンライン・マガジン「シンリンラボ」の連載としてスタートした。そしてその連載が終了した2023年3月を機会に、その12回の連載の内容を加筆修正して一書にまとめたものである。一冊の本としての体裁を整える過程で内容を振り返ると、まさに私はこの連載により心について改めて考えることが出来た。私にとって執筆とは、それを機会に特定のテーマについて考える手段なのであるが、この連載もまさにその役割を果たしてくれた。
この連載により心や脳科学についての私自身の考えは格段に進んだが、それを読む読者の中には「そんなことわかっているよ!」という反応も「どうしてそこに繋がるの?」という反応もあり得るだろう。結局私は私自身の学習に読者を付き合わせてしまうことになる。そのことには多少の後ろめたさがある。しかしもともと正解の少ない分野での議論なので、一つの考え方の例はお示しできたと思う。
稿を終えるにあたり、私には多少なりともやり残した感のあるテーマがある事を忘れてはいない。例の
この問いに関する答え、すなわち【心】は進化しても心に行きつかないという私なりの結論は、すでに5章に示した通りである。しかしそれはだからAIは出来損ないの、本当の心を生み出せないものである、という思考にはつながらなかった。
その代わりに私が至ったのは、AIが心を生み出せないのは無理もない話だという考えだ。むしろ私達の心や意識がバーチャルであり、いかに特殊なのか、という認識である。そしてそれは恐らく情緒、あるいはもっとシンプルに快/不快を与えられている存在に取っての特権なのである。
すでに線虫の段階で快、不快につながるドーパミン作動性の神経が確認される。線虫を針でつつくと、おそらく体をよじらせて痛がるようなしぐさを見せるだろう。(私は実際にそれを確かめたわけではないが、何しろ単細胞のアメーバで針でつつくとその様なしぐさを見せる。)しかしそれは本当の痛みを伴ってはいないだろう。その意味で彼らはAIレベルなのだ。
恐らく大脳辺縁系を備える爬虫類より上の進化の段階で生命体は痛みを覚え、すなわち意識を宿している。そしてそれはクオリアであり意識の現れなのだろう。こうして心が芽生えていくプロセスは、パーセプトロンに始まるニューラルネットワークの進化とは決定的に異なるのである。
このAIが目覚ましい進化を遂げる現代において、私たちは改めて心がいかに特殊でユニークで、私たちにとってかけがえのないものであるこの再認識を迫られているのである。