昨日の夕方に入って来た大谷君の「4号ソロ」のニュース。先日の藤井君の逆転劇と言い、本当に彼らに感謝している。エネルギーを注ぎ込んでもらっているからだ。(実に身勝手な「ファン」であるという自覚はある。)
(承前)ここで私がむしろ論じたいのは、社会認知モデルを信奉するような、ある意味では筋金入りのDID否定論者とは別の意味で、むしろ目立たない形で、ないしは受動的に解離の否認を行なっている場合である。社会認知モデルの存在さえ知らない臨床家は圧倒的に多いであろうし、その場合に生じる否認の方が頻度としてもより多いと考えられるからである。そこで関係してくるのが無知に絡むある種の認知バイアスである。
「無知によるバイアス」とは、ある事柄について無知であると、その存在自体を軽視、ないし否認する。いわば無知であることを否認するのである。経済学者ダニエル・カーネマン Daniel Kahnemanはその著書「ファスト&スロー」で、「自分に見えているものだけがすべてだ(WYSIATI)」という認知バイアスについて語っている。WYSIATI とは What you see is all there is であり、要するに私たちにとっての世界は、私たちが知っていることでのみ構成されているということだ。そして目の前で生じていることについて、自分が知らないことにより説明しようとはしない(あるいは実質上できないと感じる)。比喩的に言えば、目の前で起きていることについて説明を試みる際に、自分のよく知らないピースを組み合わせてパズルを解くことはしないしまた出来ない。カーネマンはまた「私たちは自分たちの無知に関して無知でいられる無限の能力を有している」とまで言う。私が第一段階の誤解や否認について述べるとき、これは解離についての(少なくとも認知レベルでの)知識を有していない、という事ではない。それは知識としてはあっても、具体的な臨床体験に基づくものではないため、「ピース」としては有効ではなく、臨床像を描くために使うことが出来ないという事である。
例えばある患者が医師に対していつもと違った声の調子や雰囲気で語りかけてくるとしよう。そしてその患者は前回の診察の時に語ったことを覚えていないという。その医師はその患者の様子に戸惑い、不思議に思う。その医師は解離性障害について知識としてはわかっているが、実際に臨床上で遭遇したことはないため、その患者の様子を説明するための情報を持ち合わせてはいない。つまりその状況を解離症状としてよりよく説明する様なパズルのピースを持ち合わせていないのだ。
するとその医師はいつもと違った気分なだけであろう、前回の面接の内容を覚えていないというのも正常範囲での健忘であろうと考え、それ以上の説明をしようとしないのである。