2024年3月25日月曜日

Jeremy Holmes の本 3

 さて中身に入る。さっそくホームズ先生は私が考えていなかったことを言ってくれる。「自由エネルギーは間違いなく創造性の基礎を作るが、拘束を受けていない場合、準備が追い付いていない神経系を圧迫し、それが負担になる。だから自由なエネルギーをなるべく拘束するというのが、私たちの生の営みなのだ」。  何か自由エネルギーは悪いもの、というニュアンスだが、これはそうなのだろうか?私は自由なエネルギーを余剰分として残したいと思うが。ただし私たちが不安に駆られた場合は、確実にこのエネルギーの最小化を試みるだろう。不安な場合は、拘束されていないエネルギーはそのまま等量の不安に翻訳されるという感じだからだ。それを拘束する、すなわち未来に起きることを予測し、確定することは不快の減少に繋がるのである。(ちなみにフロイトの「草稿」での用語では自由エネルギーはφ、拘束エネルギーはψだったな。そしてこのエネルギーの概念は結局リビドー論につながったわけだ。)  ちなみにこの議論は私が一時とても影響を受けたウォーコップ・安永の理論と関連している。彼らが言った生命エネルギーはここでいう自由エネルギーに相当するが、これは基本的には快に結びついたものであった。

第1章 「自由エネルギー原理」

脳が階層的な「推論機械 inference machine」であるというのアイデアは、実はヘルマン・ヘルムホルツに由来するという。例のヘルムホルツ学派のヘルムホルツだ。そしてすごいことを言っている。それはボトムアップ(感覚上皮からの入力)と、トップダウンの、つまり皮質由来の構成概念との相互作用と言い表されるという。  この考えをもっと説明すると、私たちの現実の体験は決して客観的なものとはいえず、そもそもが主観的な投影から始まるということだ。よく出てくる「木の枝と蛇」の例え話で言えば、頭上から落ちてくる細長い木の枝を目の端で捉えた私たちは、それを「蛇だ!」と認識して身構える。でもそれは基本的には私達の構成概念を投影しているに過ぎない。「自分を襲ってくる長くて恐ろしい生き物(=ヘビ)」は基本的に私たちの脳(大脳皮質)の産物だ。しかしこれは頭上から落ちてくる細い枝という現実との交互作用として起きたという意味ではヘルムホルツの言う通りなのである。