2024年3月8日金曜日

「トラウマ本」 トラウマと記憶 加筆修正後 1

  問題のありか

本章のテーマに入る前に、先ずは一つの問いについて考えていただきたい。

あるクライエントAさん(30歳代の女性)がこう話す。「昨日夢を見ました。何か幼い頃の光景が出てきたように思いますが、漠然としていてそれ以上は覚えていません。でも目が醒めてから小さい頃の母親とのエピソードが心に浮かんでいました。私は母親に何かの理由で怒られて家を追い出され、裸足のまま『開けてよ!お願い!』とドアをたたき続けたんです。これまで忘れていましたが、あの時の怖さや不安が急に蘇ってきました。」

心理面接で聞く話としてはさほど珍しくないであろう。しかしこれを聞いた治療者はこの「蘇った記憶」をどのように扱うだろうか?それが問いである。

おそらく治療者によって実に様々な答えが返ってくるはずだ。「Aさんがそれをはっきりと思い出したというのであれば、実際の出来事だったのだろう。」「一種のトラウマ記憶(心的トラウマを受けた出来事の記憶)であり、フラッシュバックの形でその出来事が再現されたのだ」など、この「記憶」の信憑性を重んじる立場もあるだろう。
 しかし他方では、「このAさんの記憶はおそらく夢に影響されたものであり、実際にこのような出来事があったという保証はない。」「いわゆる偽りの記憶である可能性があり、治療者の問いかけ方に影響されて創り出されたのかもしれない。」など疑いの念を抱く治療者もいるだろう。
 この様なごくシンプルな事例を取っても、その扱い方には様々な可能性があるのであり、そのエピソードをどのように受け入れて扱うかは、実際にこの治療に関わった臨床家ごとに異なるというのが現実なのだ。
 ところがここには「ケースバイケース」では済まされない問題が潜む。もし母親の虐待的な養育があった場合に、それを偽りの記憶として片づけられたら、それはAさんにとってそれこそトラウマになりかねない。しかし逆に十分な養育を行っていた母親が虐待していたと疑われ、糾弾されてしまう可能性もある。
 上にあげた例は蘇った記憶といわゆる「偽りの記憶」とをめぐる議論の複雑さを垣間見せてくれる。そして臨床場面でこのような問題に遭遇した時に、そこに一つの正解は得られないとしても、治療者はこの問題を恣意的に扱うわけにはいかない。常にそこには高度な臨床的判断が必要とされるのだ。本章での考察も、治療者が状況に応じてよりよい判断を下すための材料として用いていただきたい。

失われた記憶は蘇るのか?

「トラウマと記憶」と題した本章の中心的なテーマは以下のものである。
「忘れていたはずの記憶が後になって蘇ることはあるのか? そのプロセスで偽りの記憶はいかに形成されるのか?」
 精神分析的なオリエンテーションを持つ治療者であれば、抑圧されていた記憶やファンタジーなどが治療により蘇る、という現象の存在は、ある意味では常識ではないだろうか。少なくともフロイトはそう考えていた。そして精神分析の世界ではその様な考え方は真正面から異議を唱えられることなく継承されてきた。
 他方では最近になって聞かれるようになったいわゆる「偽りの記憶」については、それをめぐる論争の歴史はまだ浅く、人々にもその問題の深刻さは十分には理解されていないであろう。「抑圧された記憶が蘇る中で、時々事実と異なる記憶が生まれることもあるであろうが、それはあくまでも例外的なものである」というのが一般の臨床家の感覚ではないかと思われる。

ここからは「偽りの記憶」、ではなく「過誤記憶」という言葉を用いて論じたい。英語にすればともに false memory となるが、「偽りの」という言い方には記憶の意図的な捏造というニュアンスが伴いかねない。それに比べて「過誤記憶」には、現実に起きたこととは異なる内容が記憶されてしまうという、より客観的な意味が含まれる。