2024年2月16日金曜日

脳とトラウマ 1

このテーマも新刊に向けて一章として加筆訂正していく。 

はじめに

 トラウマをめぐる議論は現代の精神医学において非常に大きな位置を占めている。他方脳科学の進歩や新しい知見も私たちの目に入ることが非常に多い。その中でトラウマの概念を広く脳科学的、ないしは生物学的に捉えることは非常に重要である。

 私たちの生きる世界はトラウマの連続である。最近のロシア-ウクライナ戦争やパレスチナでの紛争を例に挙げるまでもなく、人類の歴史は戦争や殺戮、略奪、虐待、疫病などの連続であった。そして毎日のようにトラウマを負った人々が生まれていたのである。しかしトラウマに関連する精神医学が米国を中心に注目を浴びるようになったのは1970年代ごろからであったという事情はすでに述べた。逆にそれまではトラウマが精神や脳に深刻な障害を引き起こすという考え自体があまり知られていなかったのである。


トラウマと脳をめぐる議論の歴史


 トラウマが脳の変化を引き起こすという発想自体は、かなり以前から存在していた。その代表が、第一次世界大戦における「シェル・ショック」という概念である。英国の精神医学者チャールズ・サミュエル・マイヤーズによって1915年に用いられたこの病名は、戦場の兵士たちの脳の変化に着目した概念であった。

 前線で砲弾や爆撃を間近に体験し、いつ命を奪われるかもしれない思いをした兵士たちが、全身の震えやパニック、逃避行動や不眠、歩行障害などの様々な心身の症状を示したことが注目を浴びた。前線から離脱して後方に送り返されてくる兵士たちは、全身をがたがたと振るわせたり、歩行困難になったり、何かにおびえて周囲を異常に警戒したり、不眠や会話不能になるなどの様々な症状を見せた。

 彼らの多くは頭部に直接外傷を負っていたわけではなかった。しかしそれらの症状の表れは、脳に直接物理的な損傷を負った際の症状を思わせた。これに関してマイヤーズは最前線で砲弾が近くで炸裂した際に、脳に直接外傷はなくても空中を伝わる衝撃波が脳にショックを与えたせいだと考えた。(シェル shell とは砲弾の意味である。)さらには爆発による一酸化炭素中毒が原因とも考えられた。とにかく脳に何らかの外傷が生じたと考える医学者たちがこのような概念を支持したのである。

  このシェルショックは現代のPTSD(心的外傷後ストレス障害)の前身となるものだったが、やがて棄却される運命にあった。なぜなら症状を示す兵士の多くは近くでの砲弾の炸裂そのものを経験していなかったことが明らかになったからである。また砲弾の炸裂が近くで起きたかの情報が定かではないケースも多かった。そこで砲弾の爆発が見られる場合と見られない場合で、前者にのみ障害年金を受ける権利を認めたという例もあるという。(Wikipedia による。文献10^ Shephard, Ben. A War of Nerves: Soldiers and Psychiatrists, 1914–1994. London, Jonathan Cape, 2000.)