男性の性愛性の加害性と悲劇性
ここで男性の性愛性が加害的であるだけでなく、悲劇的であるという私の論点を示したい。一つの悲劇は、サイコパス性や小児性愛の多くは生得的なものと考えられ、それらの性質を備えた人は生まれながらにして加害性を背負っていることである。性的な衝動そのものは生理学的なもので、それに善悪の判断を下すべきものではない。とすればその人にとって自然な性衝動を満足させる手段が必然的に加害的とならざるを得ないという事は、その人の性愛性が本来的に負のもの、存在すべきではないものということになり、いわば生まれた時に罪を負っているようなものだ。これは非常に悲劇的な話である。
さらに深刻とも言えるのは、侵入的、暴力的、サディスティックな性質は男性の性的ファンタジーや性行動にとって本質の一部であるという可能性である。このテーマはとても大きな問題を示すことになり、ここではその問題の存在を示すだけに留まるが、私自身の立場は男性が性的な関係において積極的であること、ある種の男性の側の能動性と女性の側の受動性が少なくとも男性の側にとって都合がいいと感じるのは、男性の側のパフォーマンスフォビアが関係しているという議論を展開したことになる。
女性の側が男性に性的な関わりを積極的に求めてきた場合を考えよう。男性はそれを受け入れるようチャレンジを受ける立場になり、男性の側に「自分にそのような能力はあるだろうか?」という不安を起こしかねない。そしてそれは一種の去勢不安が生じてもおかしくない。その場から逃げ去りたくなるかもしれないし、いざという時にEDを招く可能性もあるだろう。私はその様な可能性も含めて以前論じたことがある。(岡野(1998)恥と自己愛の精神分析 対人恐怖から差別論まで 第2章 恥と生理学-心因性の勃起障害をめぐって.岩崎学術出版社 1998年。)
そこで男性の性愛性を、自分からそれを相手に求めるという立場でより不安が少ない、という意味での能動性と考えると、それはもう侵入的、破壊的、というニュアンスをいつでも帯び始めるのである。これは大変大きな問題と言える。
男性の性愛性の持つ加害性については、上記の問題を持ち出すまでもなく、以下のような具体的な例を考えを考えるだけでも明らかであるように思われる。ある女性の患者さんは次のように言う。
「今日ここに来るまで我慢して電車に乗ってきましたが、一人の男性が私を上から下までじろっと好奇の目で見たんです。それが実に気持ち悪くてトラウマのようになってしまいました。」
私は同様の話を多く聞くし、私自身が女性を見ることへのためらいを感じる。特に魅力を感じる女性について視線を向けることは、それ自体が迷惑であり、加害的であるとさえ感じている。しかしこれはどう考えるべきだろうか。
男性は不感症という議論
さてこの問題に関して、森岡正博の議論を少し紹介したい。森岡は2004年に発表したユニークな書であり、上に述べたような男性の性愛性について、結局それが男性の不感症のせいであるという結論に至っている。議論の細かい点は別として、これは非常に興味深い。
彼は男性にとっての性的興奮の高まりは、その行為が終わることで一挙に消えてしまい、その快感の程度は極めて低いという点を指摘する。つまり射精と共に男性の性的興奮は突然消失し、またその際の性的な快感も女性に比べればはるかに低いと主張する。そしてそれに比べて女性ははるかに強くまた継続的な快感を体験する。そして男性の様にクライマックスに達した後に一挙に消え去るという事も生じない。そして男性はそれに対して羨望の念を持つ。そしてこの羨望が男性の女性に対する攻撃性として表れることがある、とする。
森岡の説は男性の側からその性的な体験について赤裸々に論じたという意味でも非常に画期的であるといえる。ただし私自身はこの理論に必ずしも賛意を向けられないところもある。特に男性の女性に対する羨望という点は、そのような気持ちを体験する人もいるかもしれないが、そうではない場合もいくらでもいる気がする。男性の性愛性の含む暴力性はさらに複雑な要素が絡んでいるように思えるのである。
ただし森岡の論点のある側面は、私が以下に述べる嗜癖モデルにも通じ、その意味では大いに参考すべき点も多いと考える。