脳科学が示す非決定論的な心の世界
最後に脳科学的に理解された心の最も基本的な特徴、すなわち非決定論的な性質が臨床家に何を促すかについて述べておこう。精神療法には実に様々な学派や流派があるが、どれもその大半は決定論的、因果論的な心の捉え方をベースにしていると見ていい。つまり私たちの言動(言葉、振る舞い)にはなんらかの原因ないしは根拠があるという考えである。これはきわめて信憑性が疑わしいにもかかわらず、私たちが想像する以上に人の心を支配している。
例えばあなたが昼休みにカフェテリアに赴き、入り口に並んでいるA定食とB定食のサンプルを眺めてみる。どちらもそれぞれに美味しそうで優劣つけがたいとと思える。しかしいつまでも入り口でグズグズしているわけにもいかないので、エイやっとB定食を選んだとしよう。そのような時はさすがに自分でも大した根拠はないと思っているのではないか。心の中でサイコロを転がした結果そうなったと考えるのが自然かもしれない。
しかしもし心理学の大家がその話を聞いて、それからあなたの成育歴や最近の生活状況、そしてついでに両定食の具材について詳しく聞き取り、そこからの連想を語ってもらい、最後に厳かにこう言ったとしたらどうか?
「あなたがB定食を選んだ事には何らかの理由があるようですね。」
あなたはその心理学者の説を信じるかもしれない。なぜならあなたは自分の行動に自分でもすぐには気がつかない理由がが「ない」と断言する根拠もまた持ち合わせていないように思えるからだ。これは一般人におおむね当てはまる可能性がある。(私も精神医学や精神分析の世界に進まなければ、明らかにその様に考え続けていただろう。)こうして因果論的な考えはこの脳科学の時代にも生き延びているのである。
大抵は私たちの言動については、なんらかの原因があるともないとも言える。人の言動はその背後にある複雑な事象(記憶、思考、衝動などなど・・・・)の結果として生じる。ビリヤードの比喩で言えば、大抵はそこに数多くの玉が複雑にぶつかり合って最後の玉(つまり最後に現れた言動)が押し出される。つまり関与した数多くの玉がどれも少しずつ「原因」を担っているわけだ。
もちろん格別おおきな玉に衝かれて最後の玉が押し出された場合もあるが、その場合は私達はたいてい直観的にそれが分かる。例えばランチの定食の例にもどれば、B定食が自分の大好きなハンバークだったなら、そちらを選ぶという行動にはかなり明確な理由があったことになるし、普通はそれを自覚する。あなたの行動にはしっかりとした理由があったことになる。しかし私達の大概の言動の理由が直感的には浮かばない場合には、相当複雑な玉突き現象が起きていたことになるのだ。
しかしそれでも私たちは他人や自分の言動には「原因がある」(先ほどの比喩ではかなり直接インパクトを与えてきた一つの玉がある)と考える方向に傾きやすい。たとえそれが不明でも、自分が知らない何かの原因が影響していると考えやすいし、それには決定的な理由があるのだ。それは私たちの不安のせいである。原因が分からない出来事に対して私たちは不安や不全感を覚えるという宿命を負っているのだ。それは私たちが受肉している(現実を生きている)からだと言える。
例えばあなたが朝起きて体全体のけだるさを感じるとしよう。「何かの病気かな?」とちょっと不安になるかも知れない。事実それは重篤な病気の前触れかも知れないのだ。しかし「ああ、昨日の夜飲みすぎたせいだ。一種の二日酔いなんだ」とわかると少し落ち着くだろう。不明な出来事に理由が見つかると私たちはこうして安心するのだ。そしてとりあえずは「~のせいだろう」と考えて心をいったん落ち着かせるのである。すぐに思い浮かべられなくても、「季節のせいだろう」とか「ちょっと風邪をひいたかな」とか、ばあいによっては「気のせいだろう」となんらかの原因を心に「仮置き」するのだ。
その仮置きされる原因の最大のものは、その言動の主が「それを主体的に望んだからだ」というものであろう。実は「気のせい」というのもこれに入る。自分がそう思い込んでいるだけだ、本当は疲れていないのだ、と思うことが出来れば一番スッキリするのだ。あるいは何となくB定食を選んだ後のあなたは、人に聞かれれば結構それらしい理由を作り出すものである。(このことについては、本連載8回目の「左右脳問題」で左脳の習性として述べたとおりである。)
しかし私達に本当に自由意志というものが存在し、自分の言動を合理的に決定しているのであろうか? ここが問題なのである。この連載の第5回目で見た脳科学的な心の在り方の原則を思い出していただきたい。そこでは脳科学的には、意識はあくまでも「随伴現象」であるということを述べた。つまり脳が先で、意識はそれによって引き起こされるのだ。私達の主体性や自由意志の感覚でさえも、脳によりそう思い込まされているのである。その回から少し引用しよう。
「随伴現象説 epiphenomenalism」とは、心は脳の随伴現象、すなわち脳における現象の結果として生じる考えだ。 (中略) しかしこの考えに対しては、次のような質問を受けるかもしれない。
「心が自由意志を用いて『こうしよう!』と思ったら、脳がそれについてくる、という順番は考えられないのですか?つまり脳が心に随伴するという可能性です。」
たしかにこのような発想も成り立つかも知れない。これは上記の意味での随伴現象説と全く逆の現象の可能性を考える立場だ。そして一昔前なら私たちはその可能性を否定する根拠を持っていなかった。しかし現代の私たちは、この心→脳という方向性の因果関係は成立しないということを知ってしまっている。それがベンジャミン・リベットによって提起された「自由意志と0.5秒問題」なのである。そしてこの発見により、結局は「心は常に脳の変化の後についてくる」という事実を私たちは受け入れざるを得なくなったのである。つまり私たちが自由意思に従って何かを行ったとしても、その少なくとも0.5秒前に脳がその準備をしているということが明らかになっているのである。
被検者にいつでも好きな瞬間に行動を起こしてもらう。例えば指を動かす、といったような簡単な動作だ。そしてその瞬間を覚えていてもらって報告してもらう。すると脳波計は常にその0.5秒前に何らかの波形を検出する。このことをリベットは発見したのだ。そして純粋な意味での自由意志は存在しないことになる。なぜならそれを発動した瞬間の0.5秒前に前に脳が「何か」という活動によりそれに先行しているからだ。敢えて言うならば自由意志を発動したのは脳自身、という事になる。しかし脳の中で何がどの様に作用して最初の波形が生まれたのかについては殆どブラックボックスであり、そこで生じたであろう複雑な玉突き現象をうかがい知ることは出来ない。
このように考えるとフロイトの無意識の概念に基づく決定論は、案外真相に近いことになる。こんなところでまたフロイトに出会おうとはあまり思っていなかった。しかし現代的な意味での無意識はもはや「脳」と呼び変えたほうがいいほどに複雑で込み入ったネットワークであり、そこで意識に上らない部分以外のすべてを司る部分と捉え直すことが出来る。そしてそのスケールの大きさから言っておよそ解明不可能なのだ。それはフロイトが概念化した簡素な無意識、すなわち夢の断片や自由連想から跡付けることが出来るような無意識とは異なる。脳=無意識は容易にはその動きを知ることが出来ないような「複雑系」と呼ばれるシステムを構成している。つまりフロイトの唱えた無意識は決定論的な心の在り方を導くのに対して、脳科学的な現代の無意識(≒脳)は非決定論的な心の在り方を要請するのだ。
私がこの連載の最後にここで述べようとしていることは、しかし「心はわからない」と言って読者を混乱させることを目的としているわけではない。現代の脳科学の時代に生きる療法家は、クライエントの言動を説明することにこれまで程エネルギーを使うべきではないという事に過ぎない。それよりも治療場面で、今、ここで起きていることの中で、特に相互の感情の動きを伴うような出来事について率直に語り合うことだ。いわゆる「エナクトメント」と言い表されるものは、臨床上起きた出来事について、それが患者の側に起きても治療者の側に起きても、結局は二人の合作によるものという理解に立ちそれの未来に向けての意味について言葉を交わすことである。それがいい意味での相互ディープラーニング、双方の神経ネットワークが広く鳴り響き合う様な相互学習につながるのである。