2024年1月9日火曜日

家族療法 エッセイ 2

 日本における同調圧力ないしは忖度の文化と家族

 私の体験はかなりが17年間過ごしたアメリカ文化やそこでの臨床と帰国後19年たつ日本の文化とそこでの臨床の二重写しになっているが、最近つくづく感じることがある。日本は相手の気持ちを慮る。それはよく言えば配慮であり、悪く言えば忖度だ。しかし両方ともおそらくつながっている同じ現象なのだ。
 私は母親との関係を切れない一つの大きな理由が、切られる母親のことを考えて憐れみを感じるからではないかと思う。切られた母親の復讐が怖い、というのも案外それと地続きの感情である。母親は自分のことに執着している。自分からの裏切りに遭うとさぞかし心が痛むであろう。アーノルド・モデルは分離罪悪感という事を言い、私も「恥と自己愛の精神分析理論」で「見捨てることへの後ろめたさ」として論じたが、自分に尽くしてくれた母親は、同時に支配的であっても見捨てるに忍びない。そしてこの愛情と支配の共存している母親が一番その関係の調整が難しいのである。そして私が家族療法という形をとらないとしてもしばしば個人の治療を通してその人の家族を扱っていると思えるのは、その患者さんの背後にある母親との関係を常に考えているからではないかと思う。それに比べて夫婦の関係においては、配偶者を見捨てるという罪悪感は、母親を見捨てる罪悪感に比べてまた対処がしやすいことが多いと感じるのだ。 

 家族療法を離れてこの忖度という事についていえば、結局は日本における他者配慮ないしは対人過敏に行き着くのではないかと思う。先日ある研究会で、日本における発達障害の特徴についての議論があったが、そこで糸井岳史先生からの「発達障害の過剰適応」の講義を拝聴した。発達障害においては他人からどう見られるかという事への過敏性が、過剰適応につながるという話だ。自分を無理やり他人に合わせるという傾向は、他者の心を敏感に察知することが得意ではないと考えられる発達障害についてもいえるという議論だ。ましてや解離性障害においては、相手と同一化する傾向はさらに高まるだろう。しかしこの他者を気にするという日本人の傾向は、外国人からは極めて特殊で、場合によっては奇異にさえ思われる可能性がある。見知らぬ客人への「おもてなし」はおそらく自分自身の利益を優先する傾向のある緒外国人にとっては極めて分かりにくい問題かもしれない。