2024年1月1日月曜日

🔵トラウマと感情 1

 はじめに

この章で取り上げたいのは、感情とトラウマというテーマである。私たちは日常的に様々な感情を体験しながら生きている。それは喜怒哀楽、すなわち喜び、怒り、悲しみ、楽しみといった感情に代表される。しかしそれ以外にも恥ずかしさ、後ろめたさ、不安、恐れなどをある時は単独で、しかし多くの場合はそれらが複雑に絡んだものを体験する。これらの感情とトラウマの関係はいかなるものなのだろうか?

もちろん感情の問題がことごとくトラウマと結びついているというわけではない。しかし精神分析の祖フロイトは比較的単刀直入にこの問題に取り組み、彼自身の回答を用意したことは注目に値する。

フロイトの人生において感情は非常に大きな位置を占めていたことは間違いない。私たちが目にするフロイトの写真はどれもしかつめらしい顔を見せ、親しげな表情はほとんど見られない。しかし彼ほどの情熱家は稀ではないかと考えられるほど、人や物事への思い入れが深かった。友人であるウィルヘルム・フリースや弟子のシャンドール・フェレンチに対しても情熱的な内容を送ったが、その分決別の仕方も激しいものだった。

フロイトが最も興味を持った感情は、性的欲望や興奮に関連するものであったことは疑いない。これほど強烈で、彼の心を惑わす感情はなかったのであろう。彼がエディプス葛藤の概念を生み出す過程で論じていた幼児期の母親への性愛性は、幼少時のフロイトが若き母親に対して身を持って体験していた可能性がある。そして彼は26歳の頃にマルタ・ベルナイに出会い一気に恋心を抱き、家庭を作るために研究者の道を捨てて臨床に転じた。彼は4年ほどの婚約期間の間は禁欲を保ったとされるが、結婚した後にもマルタに変わらぬ情熱を向け続けたという記録はない。フロイトはこの体験から「性愛的な情熱は思いを遂げるや否や消え去る」という現実的な側面を知ったのであろう。それは彼が後に精神分析的な治療論を唱える際に組み込まれて行ったが、この点については後に立ち返ろう。

臨床家フロイトの発見 除反応から転移へ


フロイトは先輩であるジョーゼフ・ブロイアー医師の導きのもとで臨床家となったが、二人は感情に関する一つの興味深い体験を持つこととなった。そしてそこにはトラウマの問題が絡んでいたのである。

彼らが体験したのは次のことだ。当時ヒステリーと呼ばれていた患者の一部は、催眠を施して過去のトラウマ体験を回想してもらった場合、嘆く、悲しむなどの激しい情動体験を持った後に、ヒステリー症状が劇的に改善したのである。いわゆる「カタルシス効果」や「除反応」と呼ばれる現象との出会いである。

フロイトはそれがすべての患者に応用できるのではないかと考えた。そしてたくさんの患者に催眠をかけて昔のトラウマ体験を話してもらおうとした。しかし彼が理解したのは、それがすべての患者に応用できるというわけではないという事だった。それどころかフロイトが催眠を試みた患者の多くは、実際には催眠にかかることもなかったのだ。

やがてそのことを悟ったフロイトは、それを催眠を用いることなく、ゆっくりと行う方法を考案した。それがいわゆる自由連想法であり、それを主たる技法として扱う精神分析療法だったのだ。

こうしてフロイトは患者が治療中に体験する怒りや悲しみなどのネガティブな感情がしばしば過去のトラウマ体験に関係していることを知ったが、ポジティブな感情、例えば性愛的な感情もトラウマに関係しているという考えを持っていた。彼にとっては患者が体験したトラウマは、幼少時や前思春期における過剰な性的な情動にも関係していると考えていたのである。

もちろんすべての感情がトラウマと関係しているわけではないが、ネガティブな感情もポジティブなそれも、それがあまりに強烈な場合に心のバリアーを破壊し、それが症状形成につながるというのがフロイトの基本的な考え方だったのだ。

このような考え方が背景にあったこともあり、フロイト自身は患者から向けられた陽性感情に大いに戸惑ったことが知られている。フロイトの有名な逸話に、ある女性患者が治療中に突然フロイトの首に手を回し、その直接的な情緒表現にフロイトは当惑したというものがある。情熱家フロイトは、女性から向けられた感情表現には大きな戸惑いを体験していたという点がとても興味深い。しかしそれは患者が過去に別の対象に向けられた感情が、「情動の移動」により治療者に方向転換しただけであるという理解にフロイトは至った。それを彼は「転移」と名づけた。こうしてフロイトにとって患者の感情は、学問的に理解して治療の有効な手段として取り扱うべきものとなった。

フロイトのこの転移の理論は、彼の最大の発見の一つとされる。フロイトは転移感情は陽性でも陰性でも、それがかなり激しい場合にはそれが過去のトラウマに関係している可能性があるとともに、そもそも治療の妨げとなるという考えを持っていた。それは抵抗としてみなされ、解釈その他により積極的に解消されるべきものだとしたのだ。もしそれらの感情が表現されたままにしておくと、それらはさらに増大してコントロール不能になってしまう傾向がある。だから分析家によってその意味に対する解釈を行い、それが本来は分析家に向けられるべきものではないことを患者自身に理解してもらう必要があるのだ。そして最終的に残る、患者の治療者への穏やかな感情こそが治療を進展させる決め手となると考えた。フロイトはそれを「治療の進展の妨げにならない陽性転移」と呼んだのである。