2023年12月31日日曜日

連載エッセイ 11の3

もう大晦日である。思えば今年もいろいろなことがあった。書いてみたい気もするが、ここに書くようなことではないことばかりだ。 とにかくいろいろな人たちにお世話になった。日々の臨床で出会う患者さんの方々、私のバイジーの方々、何かと注意の行き届かない私によく我慢していただいたことへの感謝の気持ちをここで表したい。


トラウマとは記憶の病理なのか

 トラウマと脳科学というテーマで始めたこの第11回目は、そこでカバーしておきたい内容を考えると、とても一回では語りつくせないという思いがある。この連載はその後に書籍化をしていただけるという可能性もあるという事なので続きはそちらに回すとして、分かりやすい概説的な話にとどめたい。

 トラウマとは外的な要因により傷つけられることであり、それがのちの心の成長に不可逆的な影響を与えることである。それは全く元の状態に復元されたようで、実はその変化の爪痕や瘢痕を残し、何らかの後遺症を残すことが特徴である。その意味でヴァンデアコークが説明したトラウマの記憶はその代表といえるだろう。私達はよく心の傷という言い方をする。ある辛い記憶にさいなまれて「あれがトラウマになっちゃったんだ」という表現をしたりする。その記憶は通常の記憶とは明らかに別の形で脳の特定の場所に記録されているのだ。

 このように考えると、私達は次のような問いを持ちたくなるだろう。

「トラウマとは要するに、記憶の病理なのだろうか?」

確かにそう言えなくもないようだ。トラウマ関連疾患と言われるものの中での典型例は言うまでもなくPTSDであるが、その症状の中でもっとも特徴的なのが、いわゆるフラッシュバックという現象である。フラッシュバックではトラウマの体験が実に生々しく、今ここで起きているようなリアリティをもって再現される。そして感情的、ないしは身体的な反応も復元される。深刻なフラッシュバックに襲われた人をまじかに見たことがあるだろうか。トラウマが起きた時の恐怖や不安が動悸や発汗や手足の小刻みな振るえなどと一緒に蘇り、その時行なっていた動作や作業を中断してその場に頭を押さえて座り込んだりする。この体験は、単なるトラウマの記憶を思い出す、という現象とは明らかに異なる。敢えてこれを記憶と呼ぶなら、通常とは異なるもの、「トラウマ記憶」と呼ぶべきものなのである。

 トラウマ体験のもう一つの際立った特徴がある。それは通常の記憶の中に意識の中に順序良く折りたたまれておさまっているのではないという事だ。それは何かのトリガーにより、あるいはなんの前触れもなく襲ってくる。こうなると日常生活を平穏に送ることが出来なくなる。今度はそれがいつ襲ってくるかが気になり、それに用心することに全エネルギーを注ぐことになる。トラウマを呼び起こすような映画を見れなくなり、人ごみにも出られなくなる。

 事実トラウマにより引き起こされる精神的な障害としてPTSDがもっぱら想定されていたころは、トラウマとトラウマ記憶の存在はほぼ同義とされていた時期もある。しかしそれ以降トラウマと呼べるべき状態にはそれ以外のものも含まれ、それぞれが異なる形で脳に不可逆的な変化をもたらしていることが分かってきた。

それを二つあげておく。


1.解離という脳の変化


 解離性障害は複雑で分かりにくい障害である。それはしばしばトラウマと関連付けられるが、PTSDのように明白なㇳラマに起因するものとしてはなかなか理解されない。それはひとことで言えば、そのトラウマに対する反応が通常は見えにくく、華々しくないからだ。例えば街角で交通事故を目撃したとする。その時その場に立ちすくみ、恐ろしさに言葉をなくすという反応を起こした場合、その記憶がまざまざと蘇ることでPTSDが発症する場合があるだろう。ところが一部の人は、その事故を目撃したことを忘れてしまうという場合がある。あるいはその時のことを思い出そうとしても、ぼんやり靄がかかったようで夢を見ていたような体験として断片的にしか思い出せないかも知れない。つまり恐怖や驚愕といった激しい反応を見せない場合があるのだ。

 ただしこの後者の反応はその人がその過酷な体験を十分に克服できたという事を意味しない。むしろその体験の記憶が「解離」され、つまり通常の体験からは切り離されてしまい、後に解離体験という形で蘇ってくるという事が起きる。そしてこれも脳に不可逆的な変化を起こすという意味ではトラウマといえるのである。