情動とポリヴェーガル理論
ところでポリヴェーガル理論は、感情についてどのような新たな理解を与えてくれるのだろうか? そのヒントとなるのが、Porges のニューロセプション neuroception という概念である。知覚 perception が意識に登るのに対して、ニューロセプションは意識下のレベルで感知されるリスク評価を伝えるものであり、身に危険が迫った場合に思考を経ずに逃避(ないし闘争)行動のスイッチを押すという役割を果たす。これは感情を含んだ広義の体感としてもとらえることが出来、上に紹介した ダマシオのソマティックマーカーに相当する概念ともいえる。そしてそのトリガーとなるものの一部は、目の前の相手がVVCを経由して出している声の調子、表情、眼差しなどである。このようにポージスにとっては自立神経系の働きと感情との関りは明白である(p.72)。
このようなポージスの理論からは、感情と自律神経との関係はおのずと明らかである。人間の感情が声のトーンや顔面の表情によって表現され、また胃の痛みや吐き気などの内臓感覚と深く関与することを考えれば、それらを統括するVVCの関与は明らかなのだ。VVCは発達早期の母子関係を通して母親のVVCの活動との交流を通じてはぐくまれ、発語、表情などに深く関与する。その中で感情体験は身体感覚や内受容感覚も複雑に絡み合って発達し、その個の自然界における生存にとって重要な意味を持つのである。
このように感情と自律神経との関係は自明であるにもかかわらず、従来はほとんど顧みられなかったとされる。その例外はウォルター・キャノン W. Canon (1928)であったが、彼は主として交換神経と情動の関与に着目したのみであったのである。このポージスの新しい自律神経の理論によりトラウマと感情、そして身体の問題がより包括的に論じられるようになったとの観がある。
ちなみに私個人はといえばポージスの理論が感情一般について明確な視点を与えているとは必ずしも言えないとも考えている。彼が主張する通り、感情や情動は適応的な意味を持って進化してきたが、動物のそれと異なり人間の感情にはきわめて多くの種類と広がりがある。ポリヴェーガル理論は生存の危機に関わる感情、つまりはトラウマに関連した感情については雄弁に語る一方では、より微妙で複雑な感情についてはこの理論の域外と言えるのではないか。
さいごに
以上ポリヴェーガル理論における情動の理解について述べた。ポージスの論じる情動はそれが単独で語られるのではなく、トラウマ的な状況における身体と心の全体を見渡す視座の中で論じられているという印象を受ける。彼の理論は日々進化しているとの印象を受けるが、今後も精神医療に携わる私たちに示唆を与えてくれることを望む。