ショアが特に強調したのは、愛着関係が成立する生後の一年間は、乳児はまだ右脳しか機能を開始していないという事である。脳科学の発展とCTやMRIなどの画像機器の進歩は手を携えているが、後者は脳の機能の発達には側性 laterality、すなわち大きな左右差があるという事実を示すことになったという。
右脳は一般的に、情緒的な反応、対人交流、共感等の機能を備えているが、その成長にとって極めて重要なのが母親との交流であり、母子が触れあい、目を見つめ合い、情緒的なやり取りを行うという機会である。それにより乳児の右脳のネットワークが正常に構築されていく。いわば乳児の右脳は、母親との右脳どうしの交流により「耕され」るのだ。右脳の機能が促進される事で乳児は母親との一体感を体験して安全で満ち足りた状態となり、それは更なる右脳の機能の成熟、そして二歳半以降の左脳の成長へとバトンタッチをするのである。
ただし乳児の脳機能は、時々交感神経系の嵐に見舞われることになる。授乳が行われずに空腹を覚えたり、触覚的な心地よさや温かさ、柔らかさが提供されなかったり、おむつを替えてもらえずに不快を感じ続けたり、外界からの過剰な刺激や見知らぬ人物からの脅威にさらされることなど、生命体としてのあらゆる形での危機に直面するであろう。乳児は苦痛を覚え、激しく泣き、ストレスホルモンが分泌され呼吸や心拍が亢進するだろう。その時に母親が抱きかかえ、あやし、乳児の必要を満たすことで交感神経の嵐が静まり、右脳の機能が取り戻され、もとの満ち足りた状態を取り戻す。それは乳児がやがて自分の力で心の安定を取り戻せるようになるまで続けられるのである。
ここでもしその様な愛着関係が提供されなかった場合、右脳はいわば耕作を放棄された荒れ地として残されてしまい、乳児は他者と関係性を持ったり、自分自身の自律神経機能を安定させたりする力をそれ以上成長させることなく、知性や理屈といった左脳の機能のみに頼った人生を歩まなくてはならない。そしてこのような形での養育の欠如もまた、トラウマなのである。なぜならそれは先ほどの定義の通り、「外的な要因により傷つけられることであり、それがのちの心の成長に不可逆的な影響を与えること」だからだ。しかしこれはあくまでも乳児が記憶を成立させる前に生じる出来事であり、「トラウマ記憶なきトラウマ」という事が出来るのだ。
今回は脳科学とトラウマとして、現代のトラウマの捉え方が脳科学的な知見を大幅に取り入れた、より広い概念として生まれ変わろうとしているという事を示した。少し欲張りをしたせいで、字数が6000字のつもりが10000字になってしまった。三分の一ほど削る必要があるかと思うと、ため息が出る。